新竹城隍廟の三川殿前にある石獅は、石材の中では極上品の泉州市恵安県黄塘鎮の玉昌湖の青斗石を使用し、福州から職人を招いて細かな彫刻を施したものです。その青々とした色つやと生き生きとした造形が特徴的で、時間の経過とともに石材に自然と滑らかな光沢が生まれています。その愛らしい造形は中華郵政公司の郵政史上はじめて石獅がデザインされた切手のモデルにもなっています。
日本統治時代の1924年に行われた改修工事の際に泉州市恵安県から招いた木工職人の王益順(1861~1931)の作品のうち、三川殿の八卦藻井は複雑で見事な彫刻が施されています。現在は線香の煙で黒ずんでいるものの、その繊細な細工の美しさが見て取れます。
1887年、新竹地区で干ばつが起こった際、新竹知県の方祖蔭(生没年不詳)が新竹都城隍廟の城隍爺、龍王廟の龍王、竹蓮寺の観世音菩薩に雨乞いを行ったところ、実際に雨が降ったため、台湾巡撫の劉銘伝に光緒帝への報告を願い出て、翌年その霊験のあらたかさを示す「金門保障」の扁額を賜りました。現在は正殿に掲げられ、この雨乞いの歴史を物語っています。この扁額は竹蓮寺の「大海慈雲」の扁額と同様に珍しい金地に黒字で、双龍が珠を奪い合う造形のもので、額縁には扁額を守護する対の金龍が配置されています。
三川殿前後の軒先にそれぞれ配置された対の龍柱は、日本統治時代の大正期に城隍廟の再建が行われた際、有名な恵安県の石職人・辛阿救(1886~1928)が制作したものです。石材には黒灰色の安山岩を使用し、上部には八角柱の柱頭、下部には八角形の柱礎が配置され、頭を下にした龍が巻きついて連続した曲線を描き出しており、非常に象徴的な作風が感じられます。
毎年旧暦6月28日に始まり、7月30日の關鬼門までの約一ヶ月間、次のような日程で行われます。一、6月28日:陰陽司公(道教の神であり、城隍爺の補佐)を神棚から下ろす。二、7月1日:開鬼門、陰陽司公を北壇に移して「夯枷、脱枷」の儀式を行う。三、7月12日:城隍爺を神棚から下ろして巡行の準備を行う。四、7月13日:城隍爺の大少爺、二少爺が夜回り(暗訪)の儀式を行う。五、7月15日:無縁仏の魂の救済を行う巡行、鄭厝貢燕。六、7月16日:城隍爺による村落の巡行。七、7月19日:城隍の供養。八、7月20日:城隍の入殿。九、7月30日:關鬼門。
毎年旧暦7月1日午後から開始される「夯枷解厄」の儀式では、数千人の信徒が罪人を縛る紙製の「首枷」を首に掛け(「夯枷」では罪人をまねて刑具を首にはめることで、人間には「原罪」があるということを表現する)、首枷をはめて外す儀式を通じて、城隍爺に罪を許してもらい、過去の業を幸運へと変えます。
竹塹中元城隍祭は旧暦7月15日に城隍が無縁仏の魂の救済を行う巡行で最高潮を迎えます。城隍が新竹の市街地を巡行するほか、北門街の鄭氏家廟を訪れ、鄭家でお茶をごちそうになり顔を洗ってもらう「鄭厝貢燕」と呼ばれる儀式が行われます。この風習は台湾本籍で初めて進士の試験に合格したことから「開台進士」と称される竹塹北門の鄭用錫(1788~1858)が1828年の都城隍廟の改修の際に大きく貢献したことに由来し、鄭家への感謝として、都城隍爺の巡行の際は鄭氏家廟で鄭厝貢燕の儀式を行うようになりました。城隍爺の顔を洗った水には平穏無事を保つ効果があると言われており、多くの信徒に人気があります。