台湾光復後に実施された改修工事によって現在見られるような鉄筋コンクリートの華北式建築となりました。大門は独立した建物で「明延平郡王祠」の文字が掲げられ、照壁、石炉、及び日本統治時代に日本人によって「開山神社」と改められた際に残された鳥居(台湾光復後に牌坊に改築)が順に並んでいます。その先には三川門があり、門の上に掲げられた「前無古人」の扁額は後世の人々の鄭成功に対する尊敬の念を表したものです。三川門のそばにある花崗岩で造られた石段には1875年の「奉旨祭祀」の石碑が嵌め込まれ、山門内には対聯が記された数多くの木の扁額があり、その内容の多くは昔から現在まで様々な人から送られた称賛の言葉となっています。中庭、東廡、西廡には鄭成功の文臣武将の位牌や儀仗などが祀られています。また、後殿には祭祀用の空間が3つあり、中央の太妃祠には鄭成功の母・田川マツの位牌が祀られ、左右には明朝末期に殉国した寧靖王の寧靖郡王祠と鄭成功の孫・鄭克𡒉(1662~1681)の監国祠が配置されています。 <
敷地内で最も中華民国の要素を感じさせる建築物は、1947年に国民政府が日本統治時代の石造りの鳥居から最上部の横梁を取り除き、青天白日の紋章を配置して改修を施した「忠肝義胆」の記念牌坊です。牌坊の左右の石柱には白崇禧将軍(1893~1966)による「孤臣秉精忠五馬奔江留取汗青垂宇宙」、「正人扶正義七鯤拓土莫将成敗論英雄」の対聯が記されています。
正殿の中央に祀られた鄭成功の塑像は高さ2.1メートル、台湾における当代の著名な彫刻家・楊英風(1926~1997)が台湾省立博物館に収蔵されていた肖像画をもとに1961年に完成されたものです。まるで生きているかのような荘厳な佇まいで、その鋭い目と毅然とした表情が特徴的です。武器を携えた姿の従来の塑像とは異なり、文官服を身にまとい、ゆったりと手を置き、穏やかな姿勢をとっています。胸の前に飾られた金の龍は高貴な帝王の気迫を際立たせています。
1875年、沈葆楨は開山王廟を「延平郡王祠」として改築し、国家の春、秋の祀典に加えることを皇帝に願い出ました。同年、皇帝が祠の建設を許可した際に発布された聖旨は9頭の金龍が刻まれた65×48×34センチの金色の「誥命箱」に入れられていました。現在、誥命箱と復刻された聖旨は正殿に掲げられており、直筆の聖旨は台湾歴史博物館に収蔵されています。
沈葆楨が開山王廟を延平郡王祠として改築するための許可を皇帝に願い出た後、最初の建設時期がちょうど台湾東部の開発政策を進めていた時期と重なっていたこともあり閩南地方と台湾の官員が大勢集まりました。祠の建設時、沈葆楨は広く知られることとなる有名な対聯「闢千古得未曾有之奇、洪荒留此山川、作遺民世界;極一生無可如何之遇、欠憾還諸天地、是創格完人」を率先して書き記しており、現在その木彫りの対聯は正殿の両脇に置かれています。1873年の「独奉聖朝朔、来開盤古荒」の対聯は鄭成功文物館に収蔵されており、1875年に鄭成功の母を称えた「値明運窮時故英霊不毓中土、闢炎荒創局惟烈母乃生奇児」の対聯は後殿太妃祠に祀られている鄭成功の母・田川マツの位牌の両脇に飾られています。
日本統治時代の1932年に前身にあたる台湾史料館が安平古堡内に設置され、後に台南市歴史館と改称された後、赤崁楼へと移され、1963年に延平郡王祠の改修が実施された際、民族の英雄である鄭成功を称えて現所在地に新館が建てられました。それに伴い館蔵品も増加し、文物館のそばには古い大砲も残されています。鄭成功による台湾統治は短期間であったため、館内に収蔵されている文書史料には、台南に関連する陶磁器、木彫り、文書、貨幣、帳簿、武器、肖像画、拓本、明清時代の官服なども含まれています。
延平郡王祠の外の庭園に設置された鄭成功の石像は2008年に泉州市の鄭成功学術研究会から寄贈されたもので、重さ200トンあり、材質には中国泉州で最も有名な「泉州白」と呼ばれる花崗岩が使用されています。