1887年、嘉義地方が干ばつに見舞われた際、嘉義知県の羅建祥(生没年不詳)が雨乞いを行ったものの一向に雨が降らなかったにもかかわらず、嘉義城の人々が北港媽祖を迎え入れ、嘉義城隍廟と東門龍神廟で共同で雨乞いを行ったところ、翌日には恵みの雨が降り始めたとの言い伝えがあります。そこで台湾巡撫の劉銘伝(1836~1896)は嘉義城隍廟に「台洋顕佑」の扁額を授与するよう光緒帝に願い出て、現在も扁額は当時の奇跡を示すように正殿に掲げられています。
拝殿の八卦藻井は著名な渓底派の木工職人・王錦木(1909~1996)の作品で、釘を一本も使わずに全てほぞ継ぎで斗栱が美しく組まれており、王錦木特有の高貴で壮麗な木彫り芸術の特色が強く反映されています。藻井の四隅には中国語で「賜福(福を賜る)」と同じ発音の「蝙蝠(コウモリ)」の装飾が施されています。特に興味深い点は、藻井全体に配置された108の人形装飾の中で、弥勒仏や仙女、武将などの彫像の間に、スーツを着てネクタイを締め、ひげを生やし、ハットをかぶり、ステッキを手にした外国人紳士の彫像が何体も隠れていることです。
城隍廟拝殿の水車堵の左右両側と横梁には大きく精巧に作られた大型の交趾焼作品が3つあります。これらは台湾初の交趾焼芸術家・葉王(1826~1887)の後継者である林添木(1912~1987)、そして洪坤福(1865~1945)の後継者である陳専友(1911~1981)が腕を競い合った「対場作」で、特に横梁の「至誠前知」の扁額下の交趾焼は林添木と陳専友がそれぞれ半分ずつ手がけた珍しい対場作です。今にも動き出しそうな繊細な作品で、非常に高い価値を有しており、作品下部に見られる「林添木」の落款は当時この作品が年配者から高い評価を受け、廟から追加の報酬が与えられたことを意味しています。
2階に展示されている「八獅座」の武轎は、かつて巡行の際に城隍爺の神輿として使用されていたもので、城隍廟の鎮廟の宝として保存されています。これは日本統治時代の1916年、中国の著名な職人20名がおよそ2年の時間をかけて阿里山の白楊の木に彫刻を施したもので、神輿には釘が一切使われておらず、前方の2本の龍柱には原木に立体的な3層の雕刻が施されています。神輿本体には文武判官、牛馬軍将、七爺八爺、日夜遊神などの32体の神像の彫刻が施されており、真に迫った繊細な彫刻が特徴的で、台湾で唯一の「八獅座」の武轎として知られています。
嘉義城隍廟では日本統治時代の昭和期に石彫り装飾の改修が行われたことがあります。三川殿両側の廊壁に施された石彫りは著名な泉州恵安の蒋家の巨匠・蒋文華、蒋銀牆、蒋錦記(生没年不詳)と鹿港の施天福(1911~1980)が共同で完成させたもので、特に「点龍睛」と「治虎喉」は繊細な彫刻が施され生き生きと表現されています。
正殿には左右両側にそれぞれ交趾焼で造られた日本語の和歌の対聯があります。これは台湾の寺院で唯一日本語の対聯が記された交趾焼で、日本統治時代に城隍廟の取り壊しを免れようと信徒と地元の有力者が日本政府と良好な関係を築くために設置したものです。寺院は、信仰を守るために支配者に迎合するしかなかった歴史を物語っているのです。
神棚の最前列に祀られた清朝の官服と官帽を身につけた神像は1714年から1719年まで台湾府諸羅県の知県を務めた周鍾瑄(1671~1763)の像です。周鍾瑄は任期中に『諸羅県志』を編集し、飢饉救済、修学、町づくり、減税などの政策が高く評価された人物で、城隍廟の創建にあたっては俸給の寄付を行いました。辞任後、人々はその徳政に感謝し、肖像を彫って後殿の右廂に祀り、この像は後に正殿の神棚へと移されました。このように清朝時代の地方官が祀られている例は非常に珍しく、嘉義と城隍廟の発展の歴史の証明であることから、2014年に嘉義市の古文物に登録されています。
正殿の横梁に掲げられた巨大なそろばんは1841年に信徒が神様の恩恵に感謝して寄贈したものです。そろばんを掲げることには、城隍爺が一人一人の一生涯の善行と悪行を細かく計算しているため、悪事を働いてはいけないということを人々に伝える意味が込められています。