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嘉義城隍廟

台湾で唯一「八獅座」の武轎を保有する寺院
嘉義城隍廟
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所在地: 嘉義市東区呉鳳北路168号
経 緯 度: 120.45401,23.47838
料金: 無料
利用できる日:
嘉義城隍廟は通年開放(城隍爺生誕祭:旧暦8月2日前後半月)
利用できる時間帯:
午前6時~午後10時
主催機関: 財団法人台湾省嘉義市城隍廟
関係機関のURL: リンク
E-mail: cychtemple168@gmail.com
お問い合わせ: (05)222-4116

景観の価値

官廟としての性質を持つ嘉義城隍廟は古くから嘉義地区の信仰の中心として親しまれ、台湾で唯一の州城隍「綏靖侯」の称号を有する県級の城隍爺です。再建工事を担当したのは泉州渓底派の巨匠・王錦木(1909~1996)で、拝殿の八卦藻井及び正殿の歩口と次間の看架斗栱には釘が一切使われておらず、全てほぞ継ぎで接合されています。まさに神業と呼ぶにふさわしい技術が施されているのです。廟内の雕刻、色絵、泥塑などはいずれも高い文化価値を具えており、特に交趾焼の「対場作」では建築技術が競い合われ、異なる流派の特色が結集しています。廟内には台湾で唯一のほぞ継ぎで組まれた原木に立体的な3層の雕刻が施された「八獅座」の武轎も保存されており、今にも動き出しそうな繊細な彫刻を施された非常に貴重な作品として高く評価されています。

歴史と沿革

清朝時代初期、台湾には一府三県が設置されていました。そのうちの一県である諸羅県の管轄区域には台南市の新市街地以北にある台湾島の半分以上が含まれていました。県政府は諸羅山(現在の嘉義市)に設置され、1704年には台湾初の城となる木柵城が築城されています。1715年、諸羅知県の周鍾瑄が城隍廟を建設し、1765年には再建工事が実施されました。その後、幾度も起こった民間の反乱や清朝への抵抗運動において諸羅城の防衛に貢献したことから、欽差大臣の沈葆楨(1820~1879)が城隍爺への称号の授与を朝廷に願い出て、1875年に光緒帝から嘉義城隍に「綏靖」の称号が授けられ、綏靖侯と呼ばれるようになり、台湾で唯一尊号を授かった県級の城隍爺となりました。さらにその後には、干ばつの際に恵みの雨を降らせるという奇跡を起こしたことから「台洋顕佑」の扁額を賜っています。日本統治時代の1937年に三川殿、拝亭、正殿、後殿の四箇所の再建工事が実施され、その後さらに後殿は高さのある建物に改築され、現在の外観が完成しました。嘉義城隍廟は2015年に国定古跡に指定されています。

特色あるナビゲーショ

嘉義城隍廟平面図で標示嘉義城隍廟各ガイド項目、ガイド項目8ページ、詳しいコンテンツは下をご覧ください。
1「台洋顕佑」の扁額

「台洋顕佑」の扁額1887年、嘉義地方が干ばつに見舞われた際、嘉義知県の羅建祥(生没年不詳)が雨乞いを行ったものの一向に雨が降らなかったにもかかわらず、嘉義城の人々が北港媽祖を迎え入れ、嘉義城隍廟と東門龍神廟で共同で雨乞いを行ったところ、翌日には恵みの雨が降り始めたとの言い伝えがあります。そこで台湾巡撫の劉銘伝(1836~1896)は嘉義城隍廟に「台洋顕佑」の扁額を授与するよう光緒帝に願い出て、現在も扁額は当時の奇跡を示すように正殿に掲げられています。

2拝殿の八卦藻井

拝殿の八卦藻井は著名な渓底派の木工職人・王錦木(1909~1996)の作品で、釘を一本も使わずに全てほぞ継ぎで斗栱が美しく組まれており、王錦木特有の高貴で壮麗な木彫り芸術の特色が強く反映されています。藻井の四隅には中国語で「賜福(福を賜る)」と同じ発音の「蝙蝠(コウモリ)」の装飾が施されています。特に興味深い点は、藻井全体に配置された108の人形装飾の中で、弥勒仏や仙女、武将などの彫像の間に、スーツを着てネクタイを締め、ひげを生やし、ハットをかぶり、ステッキを手にした外国人紳士の彫像が何体も隠れていることです。

3交趾焼の対場作

交趾焼の対場作城隍廟拝殿の水車堵の左右両側と横梁には大きく精巧に作られた大型の交趾焼作品が3つあります。これらは台湾初の交趾焼芸術家・葉王(1826~1887)の後継者である林添木(1912~1987)、そして洪坤福(1865~1945)の後継者である陳専友(1911~1981)が腕を競い合った「対場作」で、特に横梁の「至誠前知」の扁額下の交趾焼は林添木と陳専友がそれぞれ半分ずつ手がけた珍しい対場作です。今にも動き出しそうな繊細な作品で、非常に高い価値を有しており、作品下部に見られる「林添木」の落款は当時この作品が年配者から高い評価を受け、廟から追加の報酬が与えられたことを意味しています。

4「八獅座」の武轎

「八獅座」の武轎2階に展示されている「八獅座」の武轎は、かつて巡行の際に城隍爺の神輿として使用されていたもので、城隍廟の鎮廟の宝として保存されています。これは日本統治時代の1916年、中国の著名な職人20名がおよそ2年の時間をかけて阿里山の白楊の木に彫刻を施したもので、神輿には釘が一切使われておらず、前方の2本の龍柱には原木に立体的な3層の雕刻が施されています。神輿本体には文武判官、牛馬軍将、七爺八爺、日夜遊神などの32体の神像の彫刻が施されており、真に迫った繊細な彫刻が特徴的で、台湾で唯一の「八獅座」の武轎として知られています。

5三川殿の廊壁に施された石彫り

三川殿の廊壁に施された石彫り三川殿の廊壁に施された石彫り嘉義城隍廟では日本統治時代の昭和期に石彫り装飾の改修が行われたことがあります。三川殿両側の廊壁に施された石彫りは著名な泉州恵安の蒋家の巨匠・蒋文華、蒋銀牆、蒋錦記(生没年不詳)と鹿港の施天福(1911~1980)が共同で完成させたもので、特に「点龍睛」と「治虎喉」は繊細な彫刻が施され生き生きと表現されています。

6和歌の対聯

和歌の対聯正殿には左右両側にそれぞれ交趾焼で造られた日本語の和歌の対聯があります。これは台湾の寺院で唯一日本語の対聯が記された交趾焼で、日本統治時代に城隍廟の取り壊しを免れようと信徒と地元の有力者が日本政府と良好な関係を築くために設置したものです。寺院は、信仰を守るために支配者に迎合するしかなかった歴史を物語っているのです。

7諸羅知県・周鍾瑄の神像

諸羅知県・周鍾瑄の神像神棚の最前列に祀られた清朝の官服と官帽を身につけた神像は1714年から1719年まで台湾府諸羅県の知県を務めた周鍾瑄(1671~1763)の像です。周鍾瑄は任期中に『諸羅県志』を編集し、飢饉救済、修学、町づくり、減税などの政策が高く評価された人物で、城隍廟の創建にあたっては俸給の寄付を行いました。辞任後、人々はその徳政に感謝し、肖像を彫って後殿の右廂に祀り、この像は後に正殿の神棚へと移されました。このように清朝時代の地方官が祀られている例は非常に珍しく、嘉義と城隍廟の発展の歴史の証明であることから、2014年に嘉義市の古文物に登録されています。

8正殿の巨大そろばん

正殿の巨大そろばん正殿の横梁に掲げられた巨大なそろばんは1841年に信徒が神様の恩恵に感謝して寄贈したものです。そろばんを掲げることには、城隍爺が一人一人の一生涯の善行と悪行を細かく計算しているため、悪事を働いてはいけないということを人々に伝える意味が込められています。

ひとことアドバイス

嘉義城隍廟は旧暦8月2日の城隍爺聖誕千秋に年間を通して一番の賑わいを見せます。祭典と市全体の巡行は嘉義市の信徒にとって1年に一度の大事な行事で、7日間続く祭典は大変な盛り上がりを見せます。

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