休憩所、社務所、第一鳥居、手水舎、参道、石灯籠、第二鳥居、拝殿、お供え物をする幣殿、本殿などから構成されています。本殿は玉垣に囲まれ、幣殿、拝殿ともに神明造(明治時代以降に流行した古い神社建築様式)です。本殿と幣殿は既に取り壊され、基礎だけが残存しています。現存する拝殿は戦後に閩南式の燕尾脊の屋根に改築されており、拝殿前の参道の両脇に設置された日本式の石灯籠は、一部は当時の遺物で、一部は残された基礎に改めて建てられたものです。石灯籠と鳥居の石柱にあった「昭和」の文字は削り取られているものの、今も日本の神社の雰囲気を残しています。
主要な建築物の中では拝殿だけが比較的完全な状態で残されています。戦後「通霄忠烈祠」に改築されましたが、祭祀空間は維持され、延平郡王の鄭成功と戦争の犠牲になった義士が祀られるようになったほか、拝殿の周囲にはレンガを積み重ねた壁と窓が設置されました。もともとあった木造の桁梁(張力や圧力を受ける構造)は中国の伝統的な閩南式の燕尾脊の屋根へと改築され、屋根の棟の中央に装飾された国民党の党章は当時の党国体制を物語っています。日中の建築様式を併せ持った日本式の神社です。
鳥居は参拝者を迎え入れるように神社の参道の入り口に設置されるもので、俗界と神域を隔てる門の役割も果たしています。通霄神社の第一、第二鳥居は2本の円柱の上に円柱状の笠木をのせた「神明鳥居」であり、台湾でよく見られる様式の鳥居です。
神社の後方の山には1904年に勃発した日露戦争を記念した日露戦争記念碑があります。当時劣勢だったロシアの皇帝は、急いで太平洋艦隊の救援に向かうようバルチック艦隊に要請しましたが、艦隊は後に対馬海峡で日本に殲滅されました。大正時代にこの地に建てられた「日露戦役望楼記念碑」の造形は空に向けられた戦艦の砲台を模したもので、そばには鉄製の船のいかりがあり、海軍の雰囲気を醸し出しています。その後、1945年には「台湾光復記念碑」と改名されています。