万金聖母聖殿は1869年に良方済神父が土地を購入し、同年に李拉蒙神父がスペインの古城の様式をもとに建設したものです。正面に2つの塔が並ぶ小さな教会建築で、中央の礼拝堂と東側のアプスなどの3つ部分から構成され、さらに正面は中央の玄関ホールと左右両側の角塔の3つの部分に分けられます。建築と装飾の様式には、現地の信徒が外来の信仰を受け入れられるよう、宗教的意味に加えて地域の色合いも表現されています。外観はゴシック建築とスペインの古城の古典的な要素に加え、正面の中央部分には馬背式屋根と切妻が設計されているほか、花崗岩の「奉旨」の石牌と「天主堂」の門額が配置され、さらに室内の柱に施された対聯や天井に施された中国の古典的な紋様による装飾など、至る所に地域化された建築様式が見られます。当時は建築材料の取得が容易ではなかったため、砂利、石灰、黒糖、蜂蜜、木棉、耐火レンガなどを混ぜ合わせた建材が鉄筋の代わりとして使用されており、重厚な白い外壁がその特徴となっています。
聖殿北側の角塔の上部にある鐘楼は、ルネサンス様式を色濃く反映した曲線を用いた門型の設計で、「ドミニコ会」がアジアに建てた教会によく見られる建築様式です。鐘楼は日本統治時代に一度倒壊し、1945年の台湾光復後に中央の切妻の上部にゴシック様式の尖塔の鐘楼が再建されましたが、1960年の再建工事の際に再び取り壊され、1982年の改修工事の際に現在の位置に再建され、現在までその姿を保っています。鐘楼の中にある古い銅鐘は1892年にスペインで造られ、フィリピンを経由して高雄まで海上輸送された後、聖母聖殿まで運ばれて来たものです。表面にはMR JULIUS MANN-IOH ALAY DEB K.CH 1892と銘文が刻まれています。
1874年、開山工事の視察のために台湾を訪れた清朝の船政大臣・沈葆楨(1820~1879)は、万金庄を通りかかった際に静かな農村にそびえ立つ雄大な聖堂と中国化された神父、友好的な教徒を目の当たりにし、教会は原住民を征服する「撫番」政策の推進において人種差別を取り除く役に立つと考え、同治帝(1856~1875)に布教活動への指示を願い出た結果、皇帝から許可を受けたことを表す「奉旨」と「天主堂」の2つの花崗岩の聖石が贈られました。「奉旨」は聖堂正面の切妻の真下にある2つの庇の間に嵌め込まれ、「天主堂」は大門の真上に嵌め込まれており、ここを通る将兵は必ず馬を下りて敬礼することが義務付けられていました。
北側の回廊に置かれた「聖母の神輿」は1876年にスペインから送られて来たものです。中央には無原罪の聖母像が立っており、万金天主堂の最も重要な文化財の一つに挙げられます。神輿はゴシック様式で、精巧な彫刻が施されており、表面にはスペイン王室から賜った王家の紋章があります。南側の回廊にもゴシック様式の聖母の神輿が置かれていますが、これは後に造られた新しい作品です。毎年聖母パレードの際、神輿はその主役となり、住民にとっても深い意味を持ち、万金天主教堂の鎮堂の宝として大切に扱われています。