入り口に5つの門、奥行き方向に3つの殿を持つ三川五門三進の建築様式で、正殿には三重の軒があり、左側の鐘楼と右側の鼓楼が向かい合い、三川殿は荘厳な佇まいで、屋根には福・禄・寿の三仙人の両脇に2匹の龍が飾られ、ご加護を意味しています。屋根を装飾する剪黏、交趾焼の多くは龍や鳳凰、古代中国の物語を題材としており、中央の門の上部には「慈祐宮」と書かれ、龍門は「左輔」、虎門は「右弼」と呼ばれています。後殿は5階建てで、近くから見上げても遠くから眺めても豪華絢爛な光景を望むことができます。
大門にある石獅は1803年に制作されたもので、200年以上の歴史があります。一般的な廟の入口にある石獅とは形状が異なり、あまり複雑な装飾が施されておらず、素朴な線で輪郭が形成されています。また、口を閉じた雌獅子に対し、雄獅子は口を開いて舌を出しており、天と地、陰と陽を象徴し、同廟の至宝として珍重されています。かつて、廟の修復の際に他の場所に廃棄されたことがありましたが、後に発見され、改めて三川殿の前に設置されました。
正殿の神棚に祀られている中国仙遊県の媽祖総廟から運ばれてきた素朴な造形の媽祖神像は、両手で笏を胸の前に掲げており、200年以上の歴史があります。中国にある3体の彫像について、福建省莆田市の仙遊仙霞媽祖廟が台湾で調査を行ったところ、仙霞媽祖廟の媽祖神像は松山慈祐宮から分霊されたもので、文化大革命の際に民家に避難していたものであることが判明しました。そのうち1体は紛失され、もう1体は2012年に松山慈祐宮によって「錫口天上聖母の聖意牌」と共に台湾に持ち帰られました。
現在廟内で保管されている「錫口天上聖母の聖意牌」は、清の嘉慶・道光年間に張という船商人が錫口媽祖宮からの申し出を受け、廟側が経費を負担して中国仙遊県に持ち帰り、廟を建てて祀ったものであり、錫口媽祖宮から仙霞媽祖廟への分霊も行われています。その後、台湾と中国の関係が断絶されたため、2012年になってようやく再び台湾へと戻って来たのです。聖意牌は「媽祖が台湾から福建省に伝わった」との歴史を証明しています。
開祖の林守義は台湾に渡って錫口媽祖宮を建設した後、仏教を広める中で聖母の加護を感じ、1783年に故郷の仙遊に戻ってもう一つの媽祖廟「龍興宮」を建設したところ、乾隆帝より「利済参天」の扁額を賜りました。この扁額は龍興宮へと賜ったものであり、台湾へ持ち帰ることはできなかったため、衡真和尚は13の村の住民と共に改めて扁額を制作し、落款には「闔淡紳衿士庶所獻」と記しました。2011年、元の扁額が中国の民家から慈祐宮へと持ち帰られ、現在は2つの扁額が正殿に掛けられています。
後方の松河街の堤防の壁面近くにある「松山慈祐宮石彫芸術区」には、主に龍柱や石堵など、慈祐宮の建設から200年以上の間の7回の増築や火災を経験しながらも廟内に残されてきた様々な石の彫刻作品が保存されています。最も特徴的なのは2本の石柱で、一般的な龍柱とは大きく異なり、ウサギ、ニワトリ、カエル、カニなどの様々な動物に乗る人物を象った常識を覆すかのような彫刻が石柱の周りに上から下へと施されており、長い年月を経てはいるものの、貴重な外観はそのままに保たれています。