回の字の形に配置され南向きに建てられており、中国の古典的な三進四合院の宮殿建築で、前殿(三川殿)、正殿(中殿)、後殿(聖母殿)と左右の護龍から構成されています。前殿の幅は11開間(建物の正面の間の数を意味する古代中国の建築の計算単位)に達し、その壮大な外観は、三川殿、龍門庁、虎門庁に分けられます。三川殿には美しい彫刻による装飾が施されており、壁面には青石と白石による均等で美しいコントラストが形成されています。正殿の幅は5開間で、龍山寺の主要な殿堂であり、観世音菩薩が祀られています。基台の高さが目立つほか、正殿の前に張り出した月台を参拝することもできます。周囲には内外に計42本の石柱が使用され、正殿の広々とした構造が際立っています。
龍山寺の山門は1960年代に建てられました。4本の柱で3つの開間が形成された四柱三間で入母屋造りの二重構造の屋根を持つ牌楼で、著名な建築家であり民俗芸術家の廖石成(1899~1984)によって設計されました。簡潔で洗練された造形は後ろ側の三川殿と見事に溶け合っています。
藻井は中国の高貴な建築物にのみ使用されるものです。前殿の八卦藻井は32組の斗と栱が中心に向かって集まり、その隙間には斜め方向の栱が組み込まれ、内側と外側の2周に分けられています。この精巧で美しい構造は、泉州の名匠、王益順の手による作品です。
龍山寺には六角形の鐘鼓楼があります。一般的に、伝統的な寺院の鐘鼓楼は独立した楼閣ですが、市内の限られた空間にあるため、「護室」(主要な庁堂と垂直な長方形の建物)の上に鐘鼓楼が建てられています。鐘鼓楼が轎頂式の屋根を備え、上部には三重構造の軒があることが最も特徴的で、台湾の寺院の鐘鼓楼としては初の建築様式で、後に建てられた各地に寺院の建築様式に影響を与えました。東側は鐘楼、西側は鼓楼となっており、現在の外観は泉州の名匠、王益順が改修したもので、その後、戦後の1945年に廖石成によって修復が行われ、上の軒がわずかに高くなりました。
三川殿の正面入り口にある龍柱は、台湾で唯一の銅鋳龍柱です。これは1920年にアモイの交趾焼・剪黏職人、洪坤福(1865~没年不詳)が胎土を成形した後、台北鉄工場の李禄星(生没年不詳)が鋳造技術を用いて仕上げたものです。龍の体ははっきりとした線で形作られ、柱本体には封神演義の人物の彫刻が施され、柱の底部には波、鯉、柱珠が装飾されており、当時の職人の設計に対する創意工夫が感じられます。
龍山寺の正殿の4つの金の柱の真上にある螺旋藻井は、直径5.82メートルで、32組の反時計回りの斗と栱で形成されています。これも泉州の名匠、王益順の手によるもので、もともとは斗と栱が時計回りに広がるものでしたが、戦後の1945年の改修の際に反時計回りに変更されました。
正殿にある高さ1.11メートルで、荒々しい線で彫刻された釈迦立像は、日本統治時代に艋舺出身の台湾初の彫刻家、黄土水(1895~1930)によって1925年に作られたもので、南宋の梁楷(生没年不詳)の水墨画「釈迦出山図」をモデルとしています。第二次世界大戦中に戦火に遭いましたが、その後、行政院文化建設委員会(現在の文化部)によって元通りに復元されました。