観音亭の現在の構造と規模は日本統治時代に馬公の後窟潭の人々から「江司」と呼ばれた著名な木工職人・謝江(生没年不詳)と謝自南(1908~1990)の親子が1927年に完成させたもので、澎湖市でも最大規模の寺院です。建築様式は五開間二進で、山門、2つの護龍、中庭、拝亭を備えた特徴的な配置が採られ、両側にある連なった馬背型の屋根の起伏が観音亭の切妻に特徴的な外観を生み出しています。水が流れる場所と翼室、渡り廊下、中庭が組み合わさるように配置され、渡り廊下によって回廊と護龍が繋がり、さらに上部には六角形の尖った屋根を持つ重簷式の鐘鼓楼が設けられており、台湾の寺院の中でも珍しい空間節約方法が用いられています。台座は丸い小石とレンガを積み重ねたもので、耐久性を高めるために夯土(赤泥、粗砂、石灰の三合土の隙間を突き固める方法)が加えられています。謝江親子が手がけた木造建築の構造形式には、柱が屋根の横木を真っ直ぐに支え、柱を貫通する梁が柱の間に渡され、梁の上に蜀柱(屋根の横柱を支えるための短い柱)や畳斗(台湾で幅広く用いられる木造建築の構造形式。複数の斗を積み重ねて屋根の横木の重量を支えるもの)が設けられるという特徴があり、さらに横木の間には補助用の束木が設けられており、穿斗式と抬梁式が組み合わさった構造形式が採用されています。
観音亭の外に置かれた一対の淡い緑色の大獅は、石で造られた「石獅」のように見えますが、実際には、もち米モルタル、石灰、黒糖水を調合して造られたもので、100年の歳月を経ても壊れることなく、現在まで良好な状態で保存されています。もともとは清朝時代に澎湖庁の通判衙門の前を鎮守していましたが、日本統治時代の1923年に日本政府が澎湖に建てた新庁舎が完成した際、衙門前にあった石獅が観音亭に運ばれて来ました。このような石獅は台湾全土でもここでしか見ることができません。
観音亭は何度も戦火によって破壊されており、もともとの姿は既に見ることはできませんが、現在も正殿上方の「薄海蒙庥」、「大慈悲」、「慈航普済」の3つの古い扁額だけは当時のまま残されています。「薄海蒙庥」の扁額は廟内で最も古く、清仏戦争(1884年)以前のもので、1840年に澎湖協水師副将(澎湖地区における最高軍事武官)に昇格した詹功顕(1765~1854)が1841年に分巡福建澎湖水師等処地方総官兵として贈ったものです。「大慈悲」の扁額は1886年に署通判事の程邦基(生没年不詳)から贈られたもので、「慈航普済」の扁額は1890年に前淮軍・藍翎への欽命で劉志(生没年不詳)から贈られたものです。
観音亭前の広場の隣にある古鐘亭の中の古鐘は1887年の改修工事の際に設置されたもので、1980年に海軍澎湖第二造船所の協力のもと修復が行われた後でここに置かれ、2003年には鐘亭が改修されて現在の外観となりました。
観音亭前にある西瀛虹橋は、2004年に台湾で初めて建てられた歩行者専用の鋼鉄のアーチ橋です。橋は全長200メートルで、赤、オレンジ、黄、緑、青、紫の6色のネオンライトが取り付けられています。また、ここでは毎年澎湖花火節が開催されています。