正殿には清の光緒帝から賜った「霊昭誠佑」の扁額と提督の張兆連から贈られた「霊助平蛮」の扁額が掲げられています。「霊昭誠佑」は大庄事件の平定後に天后宮が建てられた際、張兆連が扁額の授与を光緒帝に願い出たことで贈られたもので、当時扁額が台東に送られて来た際、台東には港がなかったため、船舶は全て成功小港に入港していた上、小港にも天后宮があったことから、輸送担当者は誤って小港天后宮に扁額を届けたものの、そのことに気づかず、台東天后宮ではどれだけ待っても扁額が届かなかったため、改めて扁額の授与を願い出たという話が残されています。また、「霊助平蛮」の扁額はもともと張兆連が反乱の平定における台南祀典大天后宮の媽祖のご利益に感謝して台南祀典大天后宮に贈ったものでしたが、2010年に2つの廟の間で交流の強化が図られた際、この扁額の複製が台南祀典大天后宮から台東天后宮へ贈呈されました。
廟内にある媽祖田の石碑には100年以上の歴史があります。天后宮の完成後、提督の張兆連は天后宮が運営を続けていくための収入源を得られるよう、池上郷大坡村にある義田を媽祖田として小作農に貸し出し、天后宮に小作料を納めるようにしたことが媽祖田の始まりで、媽祖田の石碑は漢民族による台東開拓の歴史の証明でもあります。
右護室の昭忠祠はもともと埤南宝桑庄の東海岸にあり、1881年に埤南庁の南路理番同知を務めていた袁聞柝が台湾東部の開発の過程で命を落とした先賢と烈士を記念して建てられ、その位牌を祀ったものでした。しかし、後に祠が倒壊したため、1893年に祠の中の位牌が媽祖廟のそばに移されて祀られることとなり、その後、祠の建設と日本統治時代の皇民化運動による取り壊しを経て、日本統治時代の1933年に台東天后宮が現所在地に移転された際、配祀として祀られることとなりました。殿内には文将軍と武将軍が祀られ、文将軍は清朝時代の海防同知・袁聞柝(1822~1884)、武将軍は当時暴徒に包囲された鎮海後軍提督・張兆連であり、2人は天后宮と深い関わりがあることから、信徒によって祠に祀られることとなりました。
台東県で元宵節に催される「元宵神明巡行」の起源は日本統治時代に遡ります。当時は衛生環境が悪く、疫病が絶えなかったため、台東天后宮では主祀神である媽祖、海山寺の観世音菩薩、福安宮の福徳正神、天官堂の白仏恩主公、順天宮の蘇府王爺を団結させて市街地を巡行することで、邪気や悪霊を払い、地域の信徒たちに祝福を与えていました。この風習が後に地域の年間宗教行事へと発展しました。毎年台東天后宮が主催者を務め、巡行の隊列は70組以上に達し、伝統的な神輿、乩童、七爺八爺、三太子、神将団、八家将、什家将に加えて、五路財神、宋江陣、龍陣、獅陣、八仙芸陣、高蹺陣、鍾馗芸陣、大鼓陣などの陣頭や藝閣、花車なども参加します。