清朝の水師提督・施琅(1621~1696)は台湾奪還後に「靖海侯」の称号を授かり、1685年に台湾平定の経緯、安撫措置、善後処置などについて略記した石碑「平台紀略碑記」を建てました。精巧な彫刻が施された台湾最古の清朝時代の石碑で、歴史的価値が高く、現在は大殿の左側に置かれています。
通常門釘は一般的な寺院の大門には使用されず、皇宮や皇帝、皇后に値する地位の神様が祀られた官廟にのみ使用されます。そのため、台湾の一般的な媽祖廟には色絵の門神が描かれていますが、大天后宮の赤い大門は72個の門釘で装飾されており、大天后宮が祀典に記載された官廟であること、そして媽祖が崇高な神であることが示されています。
正殿の基壇には正面に4つの螭首(螭は龍の九子の一つと言われ、通常は鐘鼎、印章、碑首、石段、石柱などに刻まれ、建築物においては排水口の装飾に多く用いられる)の石彫りが嵌め込まれています。わずかに上を向き、威厳のある龍頭は、中国伝統建築において御殿の階段に施される石造りの螭首の特徴で、宮殿の威厳の象徴です。このような装飾は全国の媽祖廟の中でも大天后宮でしか見られません。
大天后宮は伝統的な寺院建築を踏襲した木造の構造で、拝殿には台湾で最も高く、なおかつ最大である巻棚式の屋根が用いられています。巻棚とは古代中国の屋根の建築様式の一つで、2つの斜面が交わる部分が曲線状に湾曲しており、はっきりとした棟がなく、伝統的な建築力学を活用して釘を使うことなく組まれています。
大天后宮は「祀典」に記載されていることから、100以上の古い扁額が収蔵されており、現在掲げられている清朝の歴代皇帝から賜った扁額の中でも雍正帝の「神昭海表」、咸豊帝の「徳侔厚載」、光緒帝の「與天同功」は最も貴重なものに挙げられています。
正殿に祀られている高さ約5.45メートルの巨大な金面媽祖神像は、明朝時代に造られたもので300年以上の歴史があります。2004年、泥塑の神像内部にある木材の支柱が腐朽して神像が割れて損傷したため、修復を行ったところ、修復作業中に神像の中から清朝時代の石牌が3つ見つかり、そこには1822年に神像の修復が行われたこと、そして媽祖神像は金色の顔をした金面であることが記されていました。その後、神像は線香の煙で黒ずんでいたため、最後に実施された修復の際に元の姿への復元が行われました。媽祖の両側に配置された千里眼、順風耳将軍の彫像は清朝時代に造られた作品で、まるで生きているかのような躍動的な筋肉と威厳に満ちた佇まいが特徴的です。
3月は媽祖に熱狂するという意味の「三月瘋媽祖」という言葉があるほどの大きな賑わいを見せる媽祖の巡行儀式の起源は台南祀典大天后宮にあり、清の乾隆年間に廟務を取り仕切っていた商業組合「三郊」が媽祖の信仰と分霊を通じて、各地の郊商の交流と団結を図ったことをきっかけに、府城迎媽祖の歴史が始まったと言われています。清朝時代、巡行行事は雲林北港の媽祖が台南まで巡行する8日間の日程で行われ、参加する信徒の数は数十万人に達していました。日本統治時代の1915年には台南の「鎮南媽」が地元を巡行する形式に改められ、1937年に日中戦争が勃発すると巡行行事は中断されることとなりました。第二次世界大戦終結(1945年)後も政治情勢の影響を受けて毎年の開催には至らず、現在まで4年に一度、旧暦の子年、辰年、申年に2日間の日程で巡行が執り行われています。期間は媽祖生誕日の1カ月前で、毎回数十の寺院が参加し、巡行する神輿と陣頭の数は100以上にも上り、現在台湾で最大規模の陣容を誇る巡行行事として知られています。