奉天宮内で最も優れた建築として挙げられる三川殿は日本統治時代の1912年に広東派の巨匠・呉海桐(1867~1938)が手がけたもので、広東派の呉海桐による作品でありながら、漳派の特徴が色濃く表れています。屋根は仮四垂(屋根の上に別の小さな屋根が設置された様式)で、天秤の原理を利用して上の庇が張り出し、高さのある下の庇によって屋根が平坦になることで、高くそびえ立っているように見える視覚効果を生み出しています。正面には石彫りの装飾が施され、前後の庇は石柱に支えられ、前方の石柱には八仙と蟠龍、後方の石柱には花鳥が彫刻されており、中央の門には門神として龍が描かれています。三川殿の構造は四柱三間(「間」とは2本の柱の間の空間を指す)で、奥行き方向に7つの架桁(屋根を支える構造)があり、軒先(屋根の雨水が落ちる箇所)には吊り柱の花籃が設けられ、四垂頂の屋根は庇を支える柱で反り返り、関刀栱(関羽の刀の形をした栱。表面に隙間があり、主に斗と栱の垂直方向の重さを支えるために使用される)が組まれ、庇の端には垂花柱が設けられています。三川殿に施された剪黏には1961年の改修工事の際に巨匠・洪坤福(1865~没年不詳)の交趾焼作品が用いられています。
1928年、昭和天皇から権限を与えられた臨済宗の大本山妙心寺は、台湾人の皇民思想の強化を図り、焼香に訪れる人々が頂礼をもって日本の天皇に敬意を示すよう、台湾の重要な寺院20箇所に「今上天皇御寿牌」を贈りました。第二次世界大戦終結(1945年)後、各地の日本天皇寿牌は消失、破壊され、現在では新港奉天宮の寿牌基組のみが完全な状態で保存されており、その表面には「今上天皇陛下聖寿萬歳」と記されています。木箱の中央には菊の花の透かしの入った証書が添えられ、木箱の外側には戦国時代(1467~1616)に貴族の家紋として使用され、後に「政権担当者」(首相など)の国定神社のみが使用できるものとなった「五三桐紋」の装飾が施されています。木箱に施された繊細な細工からは100年前の日本の漆器技術がいかに高等なものであったかがうかがえます。
新港奉天宮の虎爺は100年前に新港が麻園寮と呼ばれていた時代に、既に肇慶堂の土地公廟に祀られていたと言われ、皇帝が妖怪の悪夢に悩まされていたところ、虎爺将軍がその解決に貢献したため、皇帝から「状元虎」として冊封されたという言い伝えが残されています。一般的に虎爺の多くは神卓の下に祀られていますが、奉天宮の虎爺はその勲功から、皇帝から賜った金花を頭につけて神卓の上に祀られています。台湾で唯一金花を賜り神卓の上に祀られている虎爺で、独立した「虎爺殿」を持つだけでなく、台湾各地に1000以上の分霊があるほか、遠く離れた中東トルコの地にまで分霊が行われています。毎年旧暦6月6日の虎爺将軍の生誕日には正殿で信徒に祀られ、台湾各地から分霊の虎爺も謁祖、進香に集まります。
清の嘉慶年間に寄付を行って奉天宮を建てた18の村の住民に感謝を示すため、奉天宮では媽祖による18の村の巡行が始められました。大通りに面した4つの村を3年ごとに巡行し、4年に一度の取締役と監事の改選が行われた翌年は巡行範囲が18の村と元長郷の11の村まで拡大されます。かつて巡行は車で行われていましたが、2008年からは徒歩で行われるようになり、毎年嘉義市と嘉義県の山、海、平原地区を巡行する「山海遊香」活動へと発展を遂げ、現在のように8日間にわたる奉天宮媽祖元宵巡行活動の規模が確立されました。巡行のおおよその流れは、巡行ルートを知らせる香條の貼り付け、号砲、疏文の読み上げ、演劇、媽祖巡行、入廟安座の順に行われ、大鼓陣、北管、南管、哨角、崑曲、獅陣など多数の陣頭が参加し、新港地区の重要な年間民俗行事として親しまれています。