正殿と拜殿の両側にある水車堵は日本統治時代に篠崎喜代吉が改修工事を実施した際に巨匠・洪坤福の弟子である陳天乞を招いて制作した剪粘と交趾焼の作品です。題材には主に堯舜、封神演義、三国志演義などの歴史物語や民話が多く用いられており、線香の煙で黒ずんでいるものの現代においても当時の職人の工芸技術の高さがうかがえ、雲林県に現存する最高の交趾焼作品の一つであると考えられています。
正殿の左右の壁面にある龍虎堵は1852年に大坵田堡の書家・馬龍瑞が順天宮の改修工事の落成を祝って残した書画です。龍堵は毛筆ではなく稲を使って書き上げた1枚の書で、「鳶飛月窟地、魚躍海中天」と力強い筆遣いで書かれており、虎堵には色絵で蛟龍が描かれています。一般的な寺院に見られる虎堵に虎を描くという伝統的な様式とは異なり、華人文化において「書画」という言葉の中では書が画よりも前にあり、なおかつ左側が右側よりも上位だという考えがあることから、順天宮では左側にあたる龍堵に書が設けられたとのことです。
後殿の神棚の中央に祀られた日本の木彫り観音像は、日本統治時代に皇民化運動が推進された際、当時順天宮の改修工事の役員を務めていた篠崎喜代吉が順天宮の取り壊しを免れるために、1940年に真言宗古義派吉祥寺の黒澤祐城住職を支部長として迎え入れ、黒澤祐城住職によって群馬県新田郡の吉祥寺から順天宮の正殿に迎えられたもので、第二次世界大戦後に後殿に移されました。観音像は高さ約1尺2(約38センチ)、両手を合わせた荘厳な佇まいで、一般的な華人の寺院に見られる観音仏像とは造形が異なり、背後に船型の後光があり、台座には三十三番という文字が刻まれています。
三川門の後ろにある中庭の豎材と吊筒の上には士農工商を表す日本人の格好をした木彫りの人形が4体あり、そのうちの1体は日本の下駄を履いています。このような造形は全国で類を見ず、日本統治時代に順天宮の改修工事が行われた際に日本の要素が多く取り入れられたという歴史を物語っています。
後殿にある古い供物台は1834年に彰化県二林郷の信徒・洪郁文から寄贈されたものです。作者は不明ですが、表面には丁寧に刻まれた神獣や縁起物が並び、古風な趣を感じさせます。また、当時の順天宮の再建の歴史も記録されています。