正殿の神棚の中央にある「鎮殿媽」の前方に祀られた開山六媽は拱範宮で最も古い歴史を持つ神像で、1685年に湄洲の純真禅師によって湄洲祖廟から台湾にもたらされたものです。1881年、拱範宮から団体で湄洲祖廟に謁祖・進香に訪れたところ、祖廟の神棚には6つの凹みがある石造りの祭壇があり、その凹みには、老大媽、老二媽、老三媽、四媽、五媽の神像がそれぞれ祀られていたのですが、六媽の神像だけがありませんでした。その後、拱範宮の「開山六媽」の神像の台座と湄洲祖廟の祭壇の凹みを比較してみたところ、ぴったりと収まったことから、「麦寮媽」の起源が判明したという話が言い伝えられています。神像は高さ1尺(約33センチ)で、衣服と冠の紋様には漆糸が巻きつけられ、靴には三寸金蓮の彫刻が施されています。顔は線香の煙で黒ずんでいますが、柔和な表情と厳かで落ち着きのある佇まいからは慈愛に満ちた優しさが感じられます。
正殿の天井に設けられた八卦藻井は中国唐山渓底派の職人・王樹発(生没年不詳)の作品です。渓底派の藻井には、斗栱を「頂心明鏡」(天井板)に向かって層を成すように組んでいき、中央を天井板で覆うという特色があります。しかし、拱範宮正殿の藻井は最上部の横木が露出しており、従来の渓底派の作風にとらわれない、台湾で唯一無二の作品となっています。藻井の梁間は4.6メートルで、底部は喜怒哀楽の飛龍と鰲魚の雀替が四点金柱と縁側の間に設けられています。豎材には力強い男性と男の子の飛天力士の見事な彫刻が施されています。
三川殿、拜殿、正殿の両側には三国志演義や民話を題材にした交趾焼の装飾が施されています。これらは当代の交趾焼職人・陳天乞(1906~1990)と姚自来(1911~2007)の作品であり、驚くほど高い水準の芸術性と創意性を誇ります。その中でも特に正殿右側の「華栄道捉放曹」は、青龍偃月刀を手にした関羽と赤い服を身にまとった曹操を題材にしたもので、全身が美しく表現された傑作です。
三川殿の「壬申年如意網目斗拱」は日本統治時代の改修工事の際に漳派の職人が手がけた作品で、台湾では珍しい文字型の拱が組まれています。建設当時の歳次にあたる壬申が網目の間に配置され、深い趣を添えています。
日本統治時代に実施された改修工事の際、石彫り作品は蒋九が手がけ、その中でも三川殿の龍柱と「憨番扛廟角」は特別な作品に挙げられます。龍柱には左右の柱にそれぞれ1頭の龍が装飾され、両者ともに口を開いて牙と爪を見せた力強く生き生きとした姿で表現されており、台湾伝統建築の後期に見られる龍柱の特徴が表れています。また、憨番扛廟角は濃い眉と大きな目、髪が長いヨーロッパ風の髪型、スーツを着た文化人のような装いで、他の寺院に見られる外国人をモデルにした憨番扛廟角とは大きく異なる趣向となっています。
正殿の神棚に祀られた6尺(約2メートル)の鎮殿媽は破損が深刻で修復不可能な状態だったため、日本統治時代に木彫り職人の黄亀理と林冠昌(生没年不詳)を招いて改めて制作されたものです。正殿前に設置された千里眼、順風耳将軍の神像も黄亀理の作品で、クスノキに繊細な彫刻を施し、千里を見通す目を持つ千里眼と八方の声を聞く耳を持つ順風耳の威厳ある姿が完璧なバランスで生き生きと表現されています。当時、黄亀理と漳派の職人たちは三川殿にも飛翔する鷺と鳳凰の插角及び封神演義の員光を残しており、空間に美しい彩りを添えています。