現在の澎湖天后宮の建築様式と外観は日本統治時代の1922年に実施された改修工事の際に完成したもので、広東省潮州出身の巨匠・藍木(1872~没年不詳)が工事を指揮したため、閩南式を主とした当時の台湾の大部分の寺院建築との間には違いが見られます。全体的な配置は三殿二院式で、三川殿、正殿、及び後殿にあたる清風閣から構成され、3つの殿の間に2つの中庭が設けられ、護龍と回廊で繋がっています。斜面に建てられているため、地形に合わせて内側に行くにつれ高くなっていることをはじめ、外壁に使用されている澎湖特有の咾咕石が大きな特色となっています。台湾の寺院の石段は円形や四角形のものが多く見られますが、澎湖天后宮の廟前広場と三川殿の間にある石段は多角形をしており、このような石段はここでしか見られません。三川殿は三開間で、左右両側に連なる護龍が風と砂塵を防ぐ役割を果たす澎湖独特の建築様式が採用されており、刺花や色絵などの装飾芸術も集中的に施されています。敷地内の木彫り作品の多くはクスノキを使用したもので、近代の台湾の寺院の彫刻作品に見られる精巧かつ写実的な表現法が用いられており、木彫り芸術における輝かしい模範となっています。牌楼の看架上に設けられた前向きに傾斜した弯枋(牌楼の外観にある湾曲した枋木)、柱が小さく装飾彫刻部分が大きい吊筒、多数の「四角形」の柱、牌楼上の弯枋と連栱が柱に密着した箇所に設けられた斗など、これらは全て潮州派の澎湖の職人による作品の特徴に挙げられます。
清風閣に収蔵されている「沈有容諭退紅毛番韋麻郎」と記された花崗岩の石碑は、高さ194センチ、幅29センチで、台湾で最も長い歴史を誇り、「台湾最古の石碑」と称されています。石碑の記録によると、1604年にオランダ連合東インド会社は提督・韋麻郎を派遣し、兵船を率いて中国に貿易の交渉に向かいましたが、広州で暴風に遭ったため、目的地を変えて澎湖へと向かいました。明朝の福建総兵・施徳政(生没年不詳)は都司の沈有容(1557~1627)を澎湖に派遣してオランダと交渉を行ったところ、オランダ人を追い払うことに成功し、この外交交渉での成果を記念して石碑が立てられました。
三川殿の歩口(建物前方の張り出した庇の下にある廊下)の上方にある架棟に施された装飾彫刻は、嶺南画派の木工職人の影響を受け、内枝外葉法と呼ばれる彫刻技法が用いられており、繊細な彫刻で立体的な凹凸が表現され、題材には歴史物語や花鳥が採用されています。天后宮の装飾芸術の中で最も重要な部分であり、台湾の寺院の中でも最も優れた作品の一つとして数えられます。
天后宮の色絵芸術「擂金画」は全て正殿の神棚の左右両側に施されており、大楣には3枚、神棚には4枚の作品が見られ、どれも福建省漳州の著名な木工職人で「水林師」と呼ばれた朱錫甘(1895~1940)の作品です。擂金画は寺院に用いられる色絵の技法の中でも他に例を見ない特殊なもので、制作過程において金箔粉を使用するという特徴があります。完全には乾ききっていない黒の下地の上に絵を描き、金粉の量で濃淡を表現する技法で、技術的な難易度は高いものの、華麗で高貴な視覚効果を生み出すことができます。擂金画は台湾本島ではあまり見られず、澎湖でも天后宮に数点の作品があるのみで、作品の題材としては主に人物が採用されています。天后宮の色絵装飾の中でも重要な作品の一つに数えられ、修復を行った上でガラスケースに入れて保護されています。
正殿の神棚に置かれた金面媽祖は、冠をかぶり、優しく穏やかな表情を浮かべています。1683年、福建水師提督・施琅(1621~1696)は鄭氏政権の守備軍を破って澎湖を攻め落とした際、媽祖の加護があってこその勝利だと考え、1684年に媽祖に「天后」の称号と「金面」を授けるよう皇帝に願い出て、これによって廟名も「天后宮」と改称されました。
正殿前方の屏堵には8つの門があります。日本統治時代の1923年に実施された天后宮の改修工事では正殿に屏門は設けられていませんでしたが、1945年の台湾光復後、台風の雨水を防ぐために屏門が設けられました。屏門にはそれぞれ花鳥や四季の縁起物を題材とした彫刻が施されており、富と幸福が共に訪れることを象徴しています。非常に精巧な技法が用いられており、木彫りの最高傑作に挙げられます。
正殿左側にある通路の上方に掲げられた「功庇斯文」の扁額は、澎湖で初めて科挙に合格して進士となった「開澎進士」蔡廷蘭が1844年に進士の試験に合格し、祖先を祀るために帰郷した際、1845年の天后宮の改修工事完了にあたり、学生に対する媽祖の加護に感謝して天后宮に贈ったものです。扁額は黒地に金字の陰刻が施された非常に特別なもので、1923年の改修工事完了後は清風閣の2階に掲げられていましたが、現在は正殿左側にある通路上の第二進の前落の東次間に移されています。
後殿にあたる清風閣は公善楼とも呼ばれ、以前は文人の集会の場として利用されていました。日本統治時代の1925年に実施された天后宮の改修工事の後に増築された建物で、清々しい風が吹く高い建物という意味から清風閣と名付けられ、数多くの木彫りの細部には潮州式建築様式の特色が表れています。清風閣の内部には、「沈有容諭退紅毛番韋麻郎等」の石碑、オランダ人が作成した「澎湖港地図」、天后宮改修碑記の拓本、「功庇斯文」の扁額の拓本、これまでの修理記録・図録、天后宮の改修工事の際に解体された古い部材など、澎湖天后宮の歴史的文物と古い写真が陳列されています。