八仙は中国の道教及び神話に広く見られる神仙で、唐宋時代(618~1279)には既に民間で「八仙図」が描かれており、明朝時代(1368~1644)になって作家の呉元泰(約1666年前後に存在した人物)の小説作品『東遊記』内で八仙の容貌が明確に描写されました。小説の中で8人の神仙、李鉄拐、鐘離権、呂洞賓、張果老、何仙姑、曹国舅、韓湘子、藍采和はそれぞれ世の中の老若男女、貧賎富貴の8つの顔を表すように描かれています。かつて八仙の李鉄拐、呂洞賓、何仙姑の三仙が三仙台の島で休息をとったことがあると言われており、島にある浸食によって作られた天然の洞窟は神仙が残した足跡であると考えられています。また、島にある3つの巨石を「三仙」であるとする伝説もあり、2つの巨石の間に合歓洞と海蝕岩が並ぶ景観は、呂洞賓と何仙姑の逢瀬に李鉄拐が割って入る光景であると考えられています。
三仙台はかつて台湾の原住民アミ族が伝統的に漁猟と食料の採取を行っていた場所で、「沙瓦里安」という名で呼ばれ、守護神の海龍「及発烏安」の伝説が伝えられていました。アミ族は古くから漁猟の際に生態系のバランスを尊重しています。三仙台の守護神は欲深い者には罰を与えると言い伝えられていたため、アミ族では乱獲を行った者は罰として集落に牛一頭を差し出さなければならないという規則が定められていました。しかし、後に三仙台で豊富に採れる巻き貝が商人たちに人気となり、これを買い付けて記念品として加工する商人が現れたため、大勢の人たちが「大杜谷斯」と呼ばれる大きな巻き貝を競うように探し始め、これに対して守護神「及発烏安」は近隣の海域を震わせるほどの凄まじい悲鳴を上げて警告を発しました。この時、海龍は怒りによって命を落としたと言われており、それ以来姿を現すことはなくなったとのことです。
「呂洞賓岩」と「何仙姑岩」の間にある合歓洞と仙剣峡には次のような言い伝えがあります。八仙の李鉄拐、呂洞賓、何仙姑がここを訪れた際、互いに好意を抱いていた呂洞賓と何仙姑が合歓洞の中で密かに会っていたところ、好奇心旺盛な李鉄拐はそれを覗き見に行きました。ちょうどそこを天庭の南天門の外にいた金光巨神に見つかり、巨神は剣を投げつけ、李鉄拐に剣が命中することはありませんでしたが、岩が真っ二つに割られ、仙剣峡の自然景観が生まれたと言われています。合歓洞は海水に浸食された洞窟で、その高さは最高で十数メートルにも達し、幅、長さ共にちょうど数十メートルの遊歩道を設置できる空間があります。仙剣峡は海水に浸食された崖で、そびえ立つ岩々の間を通り抜ける海風が唸りをあげ、美しい地質が織りなす景観に神話の雰囲気を醸し出しています。
潮が引いた後でなければ三仙台に渡れないという問題を解決するため、1987年に台湾島と三仙台の間に長さ約400メートルの橋が建設されました。橋は8つのアーチ橋が連なってできており、赤みがかった灰色の橋が海上に横たわるように陸地と岬を繋いでいます。側面から見ると、横になった巨大な龍が海上を飛んでいるように見え、三仙台風景区を代表する景観に挙げられています。
2つ目の岩峰「呂洞賓岩」の上にある三仙台灯台は、日本統治時代の1915年に台湾総督府が東部海域を航行する船舶の安全を確保するために建てられたもので、灯台部の高さは7メートル、灯台の最上部は海抜61.5メートルにあり、白い外観をしています。1999年には光源がソーラー充電式バッテリーに変更されました。灯台を訪れるには100段以上もある螺旋階段を登らなければなりませんが、数十メートルの高さにある灯台から見下ろすと、海水の浸食によって生み出された海溝、甌穴、海食台などの地形を一望でき、高い所から遠くを見渡す征服感を感じられるほか、太平洋の青い海と空の絶景を満喫することができます。