青地に金字の「藍田書院」の表札は、高さ90センチ、幅66センチ、中央の平面板は高さ62センチ、幅34センチの木製で、1833年の作です。為書きには1864年に再建され1916年に移転されたことを示す「同治甲子重建、大正丙辰轉築」、贈り主には地元の有力者たちから贈られたことを示す「衆紳士等全立」と記されており、さらに中央には楷書で「藍田書院」の4文字が力強く記されています。かつて不適切な方法で扁額に塗装が施されたこともありましたが、伝統的な坯土、鉱物顔料、銅油、蘇州式の色絵などを用いた修復が行われ、古跡としての佇まいが取り戻されています。
黒地に金字の「天上文衡」の扁額は、長さ212センチ、幅88センチ、厚さ4.5センチの木製で、1842年の作です。為書きには1842年の吉日に贈られたことを示す「道光壬寅穀旦」、贈り主には藍田書院の建造を記念して地元の有力者たちから贈られたことを示す「新建藍田書院衆紳士全立」と記されており、さらに中央に楷書で「天上文衡」の4文字が記されています。
赤地に金字の「文明気象」の扁額は、長さ212センチ、幅83センチ、厚さ6センチの木製で1864年の作です。為書きには1864年1月吉日に贈られたことを示す「大清同治甲子年端月穀旦」、贈り主には藍田書院の再建を記念して地元の有力者たちから贈られたことを示す「重建藍田書院衆紳士同立」と記されており、さらに中央に楷書で「文明気象」の4文字が記されています。
黒地に金字の「奏凱崇文」の扁額は、長さ236センチ、幅90センチ、厚さ6.5センチの木製で1865年の作です。為書きには改修された祠宇の落成を記念して1865年春に贈られたことを示す「乙丑春日由看頂移營南投仰荷神麻平台凱旋適重修祠宇落成題額誌感」、贈り主には「欽加二品頂戴台澎題督學使皖江丁日健敬立」と丁日健の名が記され、さらに中央に楷書で「奏凱崇文」の4文字が記されています。丁日健(生年不詳)は1835年に科挙に合格し、鳳山知県を務めたこともある人物です。
三川殿前の庭院には、外から中が見えないようにするための「照壁」が設けられています。照壁の前には、古代中国の学校では泮池と呼ばれていた「半月池」があり、池の中から顔を出す鯉は「鯉躍龍門(鯉の滝登り)」を意味し、試験合格の象徴とされています。半月池の両側に設置された旗立台も試験合格を意味しており、文廟としての特色が感じられます。
藍田書院の建物中央に門はなく、わきにある門から出入りします。入り口にあるコンクリート製の特殊な形状の門「奇賢門」は魔除けの効果があり、参観者は奇賢門の両側を通ることになります。これらは一般的な書院や寺院にはあまり見られない建築様式です。
正殿の柱や梁などの骨組みに施された木彫りは華やかさと荘厳さを兼ね備えており、主に正殿の骨組みと神棚や右廂の骨組みなどの構造体や内装に装飾が施されています。透かし彫り、浮き彫り、立体彫りといった3つの技法が用いられ、平安、富、幸福、長寿、忠孝節義を象徴する花や鳥、螭虎、書物や人物の物語などが題材として扱われています。
二進三開間(中国伝統建築の正面の外観において、2本の柱の間の空間を一開間といい、三開間は大規模の建物であることを表す)、二護龍の三合院式で、もともとあった三川殿は台湾光復後の改修工事の際に取り壊されています。現在の構造は三開間で、牌楼の中央に両開きの板戸、両側に透かし彫りの板壁があり、屋根には硬山式三川脊という技法が用いられ、歩口には軒を支える吊筒が設けられています。再建された拜殿は一層の屋根からなる単檐歇山式で、両側の硬山馬背式の護龍と繋がっており、屋根の棟には西施脊と呼ばれる装飾技法が用いられています。正殿の屋根は硬山単檐燕尾式で、全体的な構造は切妻が2つ連なった形状をしています。建築過程において建物の中心軸を境に左右をそれぞれ異なる職人が担当する「対場作」と呼ばれる形式が取られていますが、左右ともに非常に似た部材と様式が用いられています。増築された後殿には、敬聖亭、照壁、半月池、龍仙水、古風な華表、石碑、怡心亭、文化財展示館が設けられています。