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鹿港天后宮

台湾で最初に湄洲天后宮の開基媽祖像を祀った寺院
鹿港天后宮
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所在地: 彰化県鹿港鎮玉順里中山路430号
経 緯 度: 120.43140,24.05932
料金: 無料
利用できる日:
通年
利用できる時間帯:
午前6時~午後10時
主催機関: 鹿港天后宮管理委員会
関係機関のURL: リンク
E-mail: lugangmazu@yahoo.com.tw
お問い合わせ: (04)777-9899

景観の価値

創建から400年以上の歴史を誇る国定古跡の鹿港天后宮は、湄洲祖廟の開基媽祖像を祀った台湾初の寺院として知られ、台湾で最古の媽祖廟の一つにも数えられています。同寺院内に施された木彫り、石彫り、色絵などはどれも名匠の作品で、特に三川殿には天后宮の芸術の神髄が結集しており、石彫り、刺繍、色絵などは全て当代の一流の巨匠の傑作です。正殿に保存されている清朝皇帝と文武官の扁額、古代の碑文、祖廟から贈られた大霊符、媽祖の宝璽は極めて希少な文化財であり、中国の湄洲祖廟が文化大革命中に破壊されたことにより、鹿港天后宮に祀られた湄洲の開基媽祖像と民俗文化に関連する数千点の物品は特に高い歴史的価値のある宝物として大切に保存されています。

歴史と沿革

鹿港天妃廟を前身とする鹿港天后宮は、地元の人々からは「媽祖宮」や「旧祖宮」と呼ばれ、以前は鹿渓聖母宮という名で知られていました。前身となった廟は400年以上前の明末清初に現所在地の北側に創建され、当時の福建移民から守護神として親しまれていたといいます。1683年、水師提督の施琅(1621~1696)は台湾を平定する際、湄洲祖廟の開基媽祖の加護を祈願して神像を軍に持ち込んでいました。この時の媽祖像が6体の開基媽祖像の一つで、軍に加護を与えた功績から媽祖に「天妃」の称号が贈られ、施琅は「撫我則后」の扁額を献上しました。当時鹿港は貿易によって栄え、1725年、施琅の従兄弟の子にあたる施世榜(1671~1743)が土地を寄進して廟を移転しました。その後、清の嘉慶、同治年間、日本統治時代の昭和、大正期に幾度もの改修工事が行われています。天后宮は主に「殿堂式」と呼ばれる構造で、1933年に三川殿の改修が行われた際、泉州渓底村の木工職人で益順師と呼ばれた王益順(1861~1931)の甥・王樹発(生没年不詳)の設計で作業が進められました。鹿港天后宮は1985年に国定古跡に指定されています。

特色あるナビゲーショ

鹿港天后宮平面図で標示鹿港天后宮各ガイド項目、ガイド項目7ページ、詳しいコンテンツは下をご覧ください。
1三川殿の造形

三川殿は幅が五開間、奥行きが四開間で、台湾で寺院の前殿に用いられることの少ない重簷歇山式が屋根に採用されています。三川殿の両脇には八卦門が設けられ、正門は入り口部分がコの字型になっている「凹寿」と呼ばれる様式で空間の広がりを表現しています。三川殿前の歩口、軒下の牌楼の斗栱には、縦横方向に加えて斜め方向にも斗栱が組まれた「網目斗栱」が設けられています。これは栱の形状が如意のようであることから「如意斗栱」とも呼ばれるもので、渓底派の職人が建造した寺院によく見られる造形です。

2八卦藻井

八卦藻井三川殿内に設けられた八卦藻井は木工職人・王樹発(1861~1931)の作品です。藻井は2層から成り、下層の八角形の各辺から2つの栱が上に向かって四斗組まれ、計24組の斗栱が中心の「頂心明鏡」(上方の天井)に向かって組まれ、天井を覆っています。これは泉州渓底の職人が手がけた藻井に見られる特色の一つです。藻井の各辺には八仙と吊筒が装飾され、八仙の上方には「四愛」および「漁、樵、耕、読」を題材とした装飾が施されています。「四愛」とは「茂叔は蓮を愛し、羲之は鵝を愛し、淵明は菊を愛し、和靖は梅を愛す」という言葉から、蓮、鵝、菊、梅を意味します。王益順と王樹発が手がけた同様の様式の藻井は新竹城隍廟、彰化南瑤宮にもありますが、鹿港天后宮の藻井は最も優れた装飾が施されていることで知られています。

3湄州の開基媽祖の神像

水師提督の施琅が台湾平定の際に湄洲から持ち込んだ開基媽祖の神像は、高さ約2尺(約60センチ)、如意を手に持った優美な佇まいで、上品な衣服と装身具からは泉州の職人による作品の特色が垣間見えます。もともとは赤みがかった顔をしていましたが、湄洲の祖廟と鹿港天后宮で長年祀られている間に線香の煙によって顔が黒くなり、このことから「香煙媽」とも呼ばれています。この媽祖像は湄洲の6体の開基媽祖像の一つであるとされ、他の5体が文化大革命などの影響で行方が分からなくなっていることから、鹿港天后宮の神像は特に貴重なものとして扱われています。普段は神棚に収蔵されていますが、旧暦大晦日の夜11時から3月23日の媽祖生誕日までの間のみ公開され、多数の信徒が礼拝に訪れます。

4千里眼と順風耳の神像

正殿の両脇には2組の千里眼将軍と順風耳将軍が並んでいます。正殿の神棚前と歩口両側の拱門の脇に立つこれらの神像は泉州の職人・連詠川(生没年不詳)の作品と言われています。千里眼は戟と呼ばれる武器を手に構え、四方を見通す目を持ち、順風耳は斧を手にし、あらゆる声を聞くことができるとされ、優雅な佇まいと恐ろしい形相が特徴的で、古くから神像彫刻の代表的な題材として用いられています。

5三川殿の石窓の透かし彫り

三川殿の石窓の透かし彫り天后宮の石材には泉州の青斗石が使用され、透かし彫り、浮き彫り、線彫り、立体彫りといった彫刻技法が用いられています。三川殿の石窓に施された透かし彫りは蒋馨(1873~1933)の家族にあたる石工職人・蒋文華(生没年不詳)と蒋文水(生没年不詳)が手がけたもので、凹凸のはっきりした見事な龍虎の石彫りが施されています。

6「薄海蒙庥」の扁額の上方にある木彫りの「蟾蜍座」

「薄海蒙庥」の扁額の上方にある木彫りの「蟾蜍座」三川殿の八卦藻井に掲げられた「薄海蒙庥」の扁額の上方にある一対の「蟾蜍座」の木彫りは鹿港の木雕りの巨匠・施礼(1903~1984)の作品です。「蟾蜍」とはヒキガエルのことで、獅子の巻き髪やたてがみのような造形は見られません。古代の文人は月にあるとされる宮殿「月宮」のことを「蟾宮」とも呼び、科挙に合格した者を「登蟾宮」と呼んでいました。一対の蟾蜍が並ぶ蟾蜍座では、1匹が菊をくわえて長寿と幸福を象徴し、もう1匹が椿をくわえ「四季を通じて春のような暖かさ」を象徴しています。

7凌霄宝殿

凌霄宝殿天公殿とも呼ばれ、1963年に施坤玉(1919~2010)によって現在の外観が築かれました。後殿に施された石彫りは、龍柱以外は全て蒋馨の外孫にあたる張清玉(生没年不詳)が職人たちを率いて制作した作品で、龍柱には蟠龍が力強く生き生きと表現されています。

ひとことアドバイス

一般開放時間は午前6時から午後10時までです。重要な年間行事には、旧暦3月23日の媽祖生誕の日と旧暦9月9日の媽祖昇天の日が挙げられます。

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