中国式建築が採用された一代目教会堂は1877年にビンセント・ゴマル神父(中国語名:呉万福)が110元で現所在地を購入して建造したもので、台湾中部で最初の聖堂でした。1906年、地震によって一代目教会堂が損傷したため、1912年にマヌエル・プラット神父(中国語名:馬守仁)が福州杉と台湾ヒノキを使って二代目教会堂を再建しました。1975年、カトリック教会堂の開教100周年を記念し、古くなった教会堂が取り壊され、ゴシック建築、ビザンティン建築、ルネサンス建築、ロマネスク建築などが統合された現在の聖堂に改築されました。
古文物展示室は日本統治時代の1906年の地震によって損傷した後、二代目教会堂の時期に建造されたものと推測され、外壁は簡素な清水赤レンガ造りで、門と窓の周囲の壁面は積み重ねられた赤レンガが張り出しておりレトロな雰囲気を醸し出しています。室内には、台湾初のローマ字印刷機で印刷された書物、100年以上の歴史を持つ天神鐘、臨終会員証、ローマ字表記の口語体聖歌など、創建から現在までの古文物が展示されています。
古文物展示室に展示されている天神鐘は1882年にスペイン人神父によってマニラからもたらされたもので、重さ約40キロ、金、銀、銅、鉄、翡翠、鉎、鉛、錫といった8種類の金属・物質から造られ、「八宝大銅鐘」とも呼ばれています。第二次世界大戦末期、物資の不足を補うために日本軍警察は台湾各地で金属・銅器の回収を進め、同教会堂の天神鐘を回収しようとした日本軍警察と村人との間で衝突が起こったこともありました。以前羅厝地区の農民たちは時計を持っていなかったため、天神鐘の音は仕事および休憩時間を知らせる合図となっていました。
かつて正門には清の光緒帝から賜った「奉旨敬教」の石碑が掲げられ、ここを通る文官はかごを降り、武官は馬を降りなければなりませんでした。後に石碑はその行方が分からなくなったため、同石碑を永久に記念するため、林天徳神父(1952~)によって聖母像の下に新たな碑文が設置されました。