景観の価値
同教会堂は打狗(高雄の古称)の地より台湾に進出したドミニコ会が、北部に向けて布教を進める際、台湾中部に初めて建造したカトリックの教会堂です。後にここから新北市蘆洲へと徐々に宣教範囲を広げていき、台湾北部で宣教が盛んに行われるようになりました。日本統治時代の明治、大正に建てられ、以前は教室として使用されていた清水赤レンガ造りの建物には、門と窓の周囲に二代目教会堂建設時の様式が残されています。現在この建物は古文物の展示室として使用され、台湾初のローマ字印刷機で印刷された書物、死期の迫った者に神父がサクラメントを伝える「伝書鳩」、スペイン製の「天神鐘(三経鐘)」など、創建から現在までの歴史的文化財が保存されています。
歴史と沿革
同教会堂は「羅厝耶穌聖名堂」とも呼ばれています。1869年当時、既に宣教師が台湾中部の竹仔脚(現在の彰化県竹子村で、羅厝村の隣村)に派遣されていました。1875 年、彰化県埔心郷羅厝村の村人・涂心が商売のために台湾中部と南部を行き来している途中、高雄で出会ったカトリック教神父の説教に深く感銘を受け、そこで、家族や友人を集めてドミニコ会の呉万福神父に台湾中部での布教を願い出ることにしたといいます。翌年には63人の村人が洗礼を受け、これが台湾中部におけるカトリック布教の発端となりました。1949年、中国から引き上げて来たアメリカのメリノール会所属の宣教師たちが羅厝天主堂を引き継ぎ、ドミニコ会は南部での宣教活動に重点を移しました。1987年以降は台湾の神父が管理を引き継ぎ、同教会堂の歴史は新たな段階に入りました。その後、地震の被害を経て、開教100周年の改修が実施されています。現在の聖堂は三代目にあたり、ゴシック建築、ビザンティン建築、ルネサンス建築、ロマネスク建築などが統合された建築様式が特徴的です。2002年、日本統治時代に建てられた清水赤レンガ造りの古文物室が歴史的建築物に登録されています。
特色あるナビゲーショ
1様々な建築様式が統合された聖堂
中国式建築が採用された一代目教会堂は1877年にビンセント・ゴマル神父(中国語名:呉万福)が110元で現所在地を購入して建造したもので、台湾中部で最初の聖堂でした。1906年、地震によって一代目教会堂が損傷したため、1912年にマヌエル・プラット神父(中国語名:馬守仁)が福州杉と台湾ヒノキを使って二代目教会堂を再建しました。1975年、カトリック教会堂の開教100周年を記念し、古くなった教会堂が取り壊され、ゴシック建築、ビザンティン建築、ルネサンス建築、ロマネスク建築などが統合された現在の聖堂に改築されました。
2古文物展示室
古文物展示室は日本統治時代の1906年の地震によって損傷した後、二代目教会堂の時期に建造されたものと推測され、外壁は簡素な清水赤レンガ造りで、門と窓の周囲の壁面は積み重ねられた赤レンガが張り出しておりレトロな雰囲気を醸し出しています。室内には、台湾初のローマ字印刷機で印刷された書物、100年以上の歴史を持つ天神鐘、臨終会員証、ローマ字表記の口語体聖歌など、創建から現在までの古文物が展示されています。
3天神鐘
古文物展示室に展示されている天神鐘は1882年にスペイン人神父によってマニラからもたらされたもので、重さ約40キロ、金、銀、銅、鉄、翡翠、鉎、鉛、錫といった8種類の金属・物質から造られ、「八宝大銅鐘」とも呼ばれています。第二次世界大戦末期、物資の不足を補うために日本軍警察は台湾各地で金属・銅器の回収を進め、同教会堂の天神鐘を回収しようとした日本軍警察と村人との間で衝突が起こったこともありました。以前羅厝地区の農民たちは時計を持っていなかったため、天神鐘の音は仕事および休憩時間を知らせる合図となっていました。
4「奉旨敬教」の石碑かつて正門には清の光緒帝から賜った「奉旨敬教」の石碑が掲げられ、ここを通る文官はかごを降り、武官は馬を降りなければなりませんでした。後に石碑はその行方が分からなくなったため、同石碑を永久に記念するため、林天徳神父(1952~)によって聖母像の下に新たな碑文が設置されました。
ひとことアドバイス
古文物室内には、天神鐘、古い土地権利書、臨終会員証、ローマ字でつづられた聖典など、清朝時代、日本統治時代、台湾光復から現在に至るまでのカトリック関連の古文物が展示されています。参観希望者は事前の電話予約が必要です。
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