正殿に祀られた手足が動く「軟身」の媽祖神像は白沙屯拱天宮よりも歴史が長く、拱天宮の建設以降、この開基媽、鎮殿媽、進香媽を一身に集めた軟身媽祖は地元の人々から親しみを込めて「大媽」という愛称で呼ばれてきました。神像は穏やかな顔の前に簾が垂れており、鹿港鎮の民族芸術賞「薪伝奨」を受賞した彫刻家の呉清波(1931~2012)の鑑定によると、政府や中国の名家に祀られていた神像である可能性があると言われています。毎年「大媽」が北港進香に出ている間は、黒い顔の「黒面二媽」と赤みがかった顔の「粉面三媽」が廟内を鎮守します。
台湾各地で催される媽祖進香巡行の中で歩行距離が最も長く、苗栗県通霄鎮の白沙屯拱天宮から出発して雲林県の北港朝天宮まで巡行し、その往復距離は約400キロにも及びます。出発する「起駕日」、刈火儀式を行う「刈火日」、廟に戻る「回宮日」のみが事前に知らされ、日数とルートは毎年異なり、全て旧暦12月15日午後1時にその年の炉主が擲筊を行って媽祖の意向を伺った上で決定されます。全体の日程は、擲筊による日程選択、放頭旗、登轎、北港へ出発、進火、回宮、開炉の順に進行し、台湾で最も特殊な進香巡行に挙げられています。
進香の3日前に拱天宮の主任委員とその年の炉主が頭旗を手に取り、媽祖を祀る儀式を行った後、廟前の龍柱に頭旗を固定すると、地域の各方面に向けて白沙屯媽祖の進香の幕開けが宣言されます。頭旗には進香の隊列と目に見えない兵馬の指揮や厄除け、道を切り開く働きがあるとされ、力強さを強調するために、旗手は男性が務め、古代中国の武器・方天画戟が用いられます。
出発の儀式が始まると、媽祖が神輿に乗る「登轎」の儀式が行われ、前庭で龍鎮南港地区の「山邊媽祖」の到着を待った後、2体の媽祖が神輿に同乗して北港に向かいます。
進香行事において最も重要な儀式で、朝天宮の住職が朝天宮内にある年中消えることのない光明灯を使って金紙に火を点けて「万年香火」の炉にくべ、経を唱えて媽祖の祝福を祈願します。次に勺を使って聖火を白沙屯の「火缸」という炉の中に入れてから、その火缸を「香擔」(火缸を載せる道具。香火を無事に持ち帰る役割を担う男性信徒がその年の副炉主によって選出される)に入れて封印した後、その火を消さずに白沙屯に導きます。これは媽祖の万年香火と法脈が途絶えることなく受け継がれていくことを象徴しています。
拱天宮に戻ると媽祖と火缸は正殿の神棚に供えられ、万年香火の霊気が染み込むよう12日間待った後、開炉の儀式が行われます。香丁脚が進香旗を持って進香を行い、媽祖に幸福を祈願し、拱天宮の関係者が火缸を取り出して香火を廟内の香炉に入れると、開炉の儀式は完了となります。
他の進香イベントとの最大の違いは、神輿を通じて媽祖がルートを伝えるという点にあります。そのため、決まったルートや日程表、休憩地点はありません。重要な分岐点に直面すると、神輿が停まり「行轎」(自然に起こる上下や前後の揺れなどの動き)で進行方向が示されます。このため、橋を渡ったり、路地に入ったりすることもあり、2001年の進香では媽祖の導きで信徒たちが濁水渓を徒歩で渡ったことが美談として語り継がれています。
台湾における媽祖進香の歴史は古く、白沙屯媽祖進香に参加する信徒も年々増加しています。清朝時代から進香に随行する信徒は「香丁脚」と呼ばれており、これは各家庭から送り出された若い男性が、進香旗、金紙、わらじ、保存食、傘、簡素な服が入った網状の袋を背負って一日中神輿について歩き、交代で媽祖の神輿を担ぐことを意味します。全行程徒歩で行われる進香の苦労は、若い香丁脚にとって大人になるための通過儀礼のようなものです。また、媽祖信徒にとっては体力と信仰が試される場でもあり、毎年多くの信徒たちが自ら志願して媽祖とともに山や川を越え、篤い信仰心を示します。
初期は香丁脚の人数が少なかったこともあり、道中では老若男女を問わず、協力し合って神輿を担いでいました。また、一般的な民間儀式の中には女性の参加を禁忌としているものもありましたが、この地域ではそのような禁忌はありませんでした。歳月とともに特定の区間では性別や国籍の分け隔てなく媽祖の神輿を担ぐことが許可されるようになり、その様子は白沙屯媽祖進香の大きな特色の一つとなっています。