新埔褒忠派出所前から階段を上がったところにある彩り豊かで雄大な「褒忠亭」の牌楼には「成仁」、「取義」の文字が掲げられています。牌楼の梁には湾曲した枋が5つ並ぶ「五弯連枋」という工法の斗拱が組まれており、一層一層積み上げられた円形の斗が牌楼に立体感と華やかさを添えています。門の両脇にある青斗石で造られた石獅は初期の作品で、左側には雄獅子、右側には雌獅子が配置されており、優れた造形と丸みを帯びた輪郭が特徴的です。
廟の後方には広々と緑が生い茂った2つの義民塚があります。そのうちの一つが1784年に設置され、日本統治時代の1923年の夏に改修された大塚「粵東褒忠義民之総墓」です。ここには林爽文の乱で犠牲になった客家人が埋葬されています。清朝は反乱の鎮圧における義民部隊の功績を称え、勅令を発して「褒忠」の扁額を贈り、当時人々の先頭に立って反乱の鎮圧に当たった林先坤は勅旨を受けると、それを記念して義民の遺骨を合同で埋葬しました。「地霊人傑」と刻まれたもう一つの塚は地元の人々からは副塚と呼ばれ、1862年に起こった戴潮春の乱の鎮圧に協力した義民の遺骨が埋葬されています。
清朝の乾隆帝は林爽文の乱の鎮圧において政府に協力した義民の功績を称え、直筆の「褒忠」と「旌義」の2つの扁額を新竹の客家義民と諸羅(嘉義の古い地名)の閩南義民にそれぞれ贈りました。「褒忠」の扁額は義民廟の正殿に掲げられており、「褒忠」が表す忠義の精神は客家の神髄として受け継がれ、扁額も義民廟の栄誉を称える看板となっています。また、廟内にはもう一つの重要文化財「尽忠報国」の扁額が保存されています。日本統治時代の1937年に日本政府が皇民化運動を推進した際、元台湾総督の小林躋造(1877~1962)は一つの郷鎮につき一つの寺院のみを残すという政策を実施し、褒忠廟が取り壊し候補に挙げられると、民衆から反発が起こりました。その後、台湾総督を引き継いだ長谷川清(1883~1970)は特別に「尽忠報国」の扁額を贈ることで、事態の収拾を図りました。
毎年旧暦7月に褒忠亭で催される義民文化祭は義民爺信仰における1年に一度の重要な祭典です。1788年の落成後の聯庄の祭典が由来となっており、初期は林先坤などの4つの姓が交代で祭祀を担当していました。1835年には初めて新竹や桃園などの信徒を招いた祭典が盛大に開催され、それに伴い祭祀圏は13の村まで拡大し、年一度ずつ祭祀を交代で担当するようになり、同年「敕封粵東義民祀典簿」と呼ばれる規約帳が作成されました。1976年、祭祀圏は15の村にまで拡大し、褒忠亭義民廟は台湾における最大の客家信仰の中心となりました。