中国南方の伝統的な建築様式を継承した空間配置が用いられており、廟殿の正面にそびえ立つ山門は四柱三門の外観で、見事な重檐が目を奪います。正脊の中央には火の玉が配置され、その左右両側で向き合う双龍が火を鎮める様子は中壢区を代表する景観となっています。山門の後方にある広場「廟埕」は三殿式の廟まで伸び、三川殿を含めた拜殿、正殿、後殿、東西廂の周囲まで伸びています。三川殿の正脊(古代中国の建築物において大梁の最上部の一番高くなっている部分)には双龍が福禄寿の三仙人を守護する剪黏が装飾されており、西施脊(正脊上に設けられた装飾)は剪黏によって華麗に飾られ、正殿の正脊には塔を守護する双龍の装飾が施されています。
1838年当時、仁海宮は土壁と粘土瓦の粗野な造りで、雨風によって壁や塀が破損していたため、1870年に数々の議論を経て再建が決定されました。再建工事を担当した庠生(中国の明清時代の科挙制度において府・州・県の学校で学ぶ学生の別称で、秀才を意味します)の王国華は、翌年に工事を完了させると「海国長春」の扁額を贈呈しました。また、当時の中壢地区の信徒からも「慈悦普済」の扁額が贈呈され、この2枚の扁額は現在も正殿に掲げられています。
仁海宮から左に50メートル離れた位置にある中壢聖跡亭は清朝末期に建てられたもので、後に日本統治時代の昭和期に再建が行われました。当時中壢で最も栄えていた市街地では商売が活発化し、多くの有力者や学生が絶えず集まり、大量の人材と文化がもたらされたといいます。客家人は天と文字を敬う伝統から、破損や欠損のある書物や文字の書かれた不要となった紙を集めて焼却するための聖跡亭を仁海宮のそばに建造しました。聖跡亭は高さ約4.33メートル、内部はレンガ造りで、外側は洗石子で装飾されています。全体が3つの層に分かれており、一番上の層は六面体で、正面に浮き彫りされた「聖蹟」の二文字とアーチ状のひさしが特徴的です。最上部は花瓶の形状をしています。中央の層は四面体で、正面には楕円形の焚き口があり、その周囲には複雑なモールディングと中国語で「福」と同じ発音を持つ「蝙蝠(コウモリ)」に似た造形の装飾が施されています。そして、一番下の底部は八面体となっています。当時の日本の建築様式の影響を受け、再建の際に洗石子が使用されたほか、バロック様式のカルトゥーシュと呼ばれる特徴的な装飾なども取り入れられており、台湾で唯一バロック様式の装飾を施された聖跡亭であるとともに、日本統治時代における文化の融合を示す例として、桃園市の市定古跡に指定されています。