参拝者で賑わう蓮座山観音寺は「一の字型」の建築様式で、主に蓮座山の丘の上では奥行きを十分に確保できないという地理的制限から、横方向に広い様式が採用されました。日本統治時代の1934年に行われた再建工事で五門単殿式に拡張された際、門が一つの一の字型の建築様式は維持されましたが、内部の建築材料の一部は位置が移動され、正殿の屋根は「三川」へと改築されました。簡素で小規模の寺院だった観音寺は九開間「五門」式の中規模の寺院に変わりました。
一の字型の建築様式と前方にある拜亭は、台湾では珍しい「一進式廟宇三川殿前築軒」と呼ばれる構造と様式を構成しています。歇山重簷式(四面の屋根の上にもう一層の屋根が乗った建築法で、尊貴さを象徴しています)の拜亭は信徒から敬意を込めて「観音亭」と呼ばれ、日本統治時代の1904年に建てられた後、1934年の再建の際に四角の拜亭から八柱式の歇山重簷に改築されました。拜亭前の両側にはそれぞれ石獅が設置されているほか、美しい色絵による装飾が施されており、風情のある仙人の吊筒も日本統治時代の昭和期に再建工事が実施された際の作品です。
寺院前の拜亭の上方には珍しい「闘八藻井」が見受けられます。その制作方法は、正方形の寿梁の上に木材を八角形に渡し、24組の斗栱を内側上方に向かって組んでいき、3層組んだところで斗栱を16組に変え、再び中心に向かって3層組んでいき、最後に八卦符で中心部分を仕上げるというものです。梁の上に斗栱が均等に分布し、突き出た軒を支えています。下側の2層目の8つの角に使用されている「振り返った姿」の螭虎の栱は、清の光緒年間以降に漳州の木工職人がよく栱頭に使用していた技法です。
寺院の右側10数メートルの位置にある敬聖亭は、正確な建造年は特定されていませんが、観音寺とほぼ同時期に建造されたものであると言われています。日本統治時代の1936年に改修が行われ、中壢区の仁海宮のそばにある聖跡亭もほぼ同時期に改修が行われましたが、蓮座山の敬聖亭は中国式、仁海宮の聖跡亭はヨーロッパ式というように、それぞれ異なる様式で改修工事が行われました。本体はほぼ完全な状態で保存されており、中が空洞の角柱形の構造で上中下の3層から成り、赤レンガを積み重ねて作られ、高さは約5メートルです。屋根は歇山重簷式で、最上部にある「奎星楼」の横額には、古代中国の文書と試験の運をつかさどる文昌帝君が祀られ、内部には学者と学生の守護神「魁星」の神像が置かれています。また、本体には生き生きと描かれた龍と虎の石刻が見られるほか、風鳥と蓮の花の彫刻も施され、両側には「奎垣呈士気、星斗射文光」の対聯があります。中央の層は主に文字の書かれた紙の焼却に使用されていたもので、焚き口の上部には「敬聖亭」の3文字が記されています。そして、土台には八卦の欄干が備え付けられています。
入り口の石段のそばに置かれた咸豊年間の古い石獅は素朴な造形で力強く刻まれており、日本統治時代に行われた再建工事の際、参拝者を迎え入れる目的でこの場所に移動されました。