明朝時代から烈嶼では保生大帝の神像が祀られており、廟は存在したものの、住民が交代で神像を祀る特殊な制度が採られ、島全体の村が8つの集団に分かれて毎年交代で炉主を務めていました。このことから保生大帝は「八保老大」と呼ばれていました。清朝時代にオランダ人によって大道公廟が焼き払われると、住民は西方、青岐、上庫、上林の4つの甲と呼ばれる組織「四甲」に分かれて交代で祭祀を行う制度を設けました。主体となる廟はなく、保生大帝の神像を炉主の村に迎えて祀る形式が採られ、各甲の中にはさらに大小様々な村が存在し、交代で祭祀を主宰する風習が生まれ、烈嶼で最も歴史が長く、最も盛大な廟会となりました。請大道公では、保生大帝を迎える甲の長「甲頭」と保生大帝を祀っている「甲頭」が会合を行って行事の流れを取り決め、旧暦12月18日から22日の間で吉日を選んで出発します。道中では各甲頭が香案を設置して保生大帝を出迎え、保生大帝が到着すると陣頭のパフォーマンスが始まり、銅鑼や太鼓の音が激しく鳴り響きます。
時代の移り変わりに伴い、烈嶼地区からの人口流出が進んだことと祭祀を交代で主宰するには大量の人手と物資が必要であることから、信徒から廟の建設が提案され、1998年、金門全域の廟殿の中で最大規模の保生大帝廟が落成しました。保生大帝が神棚に迎えられると、甲に分かれて交代で祭祀を主宰する「分甲輪祀」の風習は、旧暦3月15日に交代で建醮と呼ばれる祭典を主宰する制度に変更され、祭祀の時期を迎えると、炉主はそれまでと同様に廟内で神様への奉仕を行いました。その後、毎年旧暦1月4日に四甲が交代で、保生大帝が各村の神様と共に烈嶼全域を巡行する行事を執り行うようになり、これによって輪祀の風習は本当の終わりを迎えました。
保生大帝廟は二進式の宮殿式構造で、前殿の2つの棟、大殿と太子亭、廟の前方にある山門の牌楼は全て花崗岩と青斗石で建てられており、烈嶼地区を代表する建築物の一つとなっています。廟は高さが17メートル、総面積が650平方メートルあり、金門で最大規模の寺院でもあります。廟内の龍柱、壁堵、人物、鳥獣はどれも青斗石に彫刻を施したものです。正殿に祀られている赤い顔の保生大帝は中国の医薬の神で「大道公」とも呼ばれています。神棚には2体の神像が祀られ、その両側には台北大龍峒保安宮から贈られた灯籠が並んでいます。
古くから烈嶼地区には、保生大帝から授かった米亀を食べて平安を祈願する「乞亀」という風習があります。神様に伺いを立ててから擲筊を行い、表と裏が一つずつ出る「聖筊」が出れば米亀を1つ受け取ることができるので、家に持ち帰って食べてることで平安を祈願します。