清の雍正10年(1732年)、大甲西社番の一揆が起こりました。これは、タオカス族(台湾原住民で平埔族に分類される)の林武力を首領とした武装蜂起で、1年にわたり続きました。この一揆により、漢人、平埔族とも多数の死者を出し、清朝政府が平埔族の各集落の駐屯兵を増やし、原住民集落の統治を強化することにもなりました。 当時、清の淡水同知(副知事)の張弘章(生没年不詳)が義勇軍を率いて阿束社(平埔族集落の一つ)を通過する際、林武力ら一揆勢の攻撃を受けましたが、阿束社付近の広東出身者の集落から救援が来ました。この戦いにおいて、18名の広東出身者が亡くなり、その遺体は村人の手で県城の外に埋葬されました。この「十八義民の墓」が懐忠祠の前身です。 一揆の鎮圧後、浙江省と福建省の総督郝玉麟がこのことを朝廷に報告し、雍正帝は祠を建てて義民を追悼するよう地方の役人に命じました。その時に建てられたのが彰化懐忠祠です。懐忠祠は後に戦禍で破壊されたため建て直され、日本統治時代以前の最後の改築である清の光緒7年(1881年)の改築により、今日の姿となりました。
1997年に建てられた寺院の隣に再建される記念碑があります
本堂の屋根トラス構造はバケツを積み重ねて構成されており、外装には装飾画や形状はありません。
18人の義人のために2つのタブレットがあります。小さなタブレットには、犠牲になった義人の名前と、神殿が建てられて再建された時期が記録されています。
懷忠祠のいけにえの空間で、上に「舍生取義」という飾り板があります。
本堂の「榮邁登瀛」の飾り板は古いですが、残念ながら署名が抜けており、実際の日付は特定できません。
礼拝堂横の切妻の底は小石を土台とし、その上にレンガを積み上げています。
懐忠祠の周辺は散らかっていて、寺院の敷地は狭い路地にあり、管理が不足していて、お香がいっぱいではありません
ドラゴンの切妻の頭はフレスコ画とコーチンの陶器で飾られています