金門県の金沙鎮後浦頭の栄湖のほとりに位置する慈徳宮は、清の光緒2年(1876年)、村の先賢・黄卓科(生没年不詳)が東南アジアで寄付を募り、帰郷して建てたものです。慈徳宮には明代の先賢・黄偉(黄逸叟、1488-1538年)を祀っています。金門には黄偉と許獬(許鍾斗、1570-1606年)に関する民間伝承が数多く残されています。二人は「文の許鍾斗、徳の黄逸叟」と並び称され、いずれも明代の金門で最も盛名を馳せた人物です。生涯にわたり民を慈しんだ黄偉の徳行は並ぶ者なく、「完全な人徳者」と呼ばれていました。それゆえ黄偉を祀る廟は「慈徳宮」と名付けられたのです。 清代に創建されて以来、100年以上にわたる時代の移り変わりのなかで、慈徳宮は建設・修繕・改築・増築の4つの建築時期を経験しました。異なる時期の材料や工法、細部の技法などが混在する建築は、この地域の建築史の縮図であり、金門地域の各時代における建築工芸の特徴が表れています。同時に、慈徳宮が創建以来、黄氏の末裔たちの団結を強化する求心力となってきた歴史を今に伝えています。
3つの川の尾根ははさみで飾られており、中江の2つの龍がビーズを奪っていて、小港の両端に龍に乗っている姿があります。
神社の前の木彫りは、忠誠心、親孝行、誠実さ、誠実さを意味します
石の彫刻は技量が絶妙で、これは二重凹型の生活の壁の装飾です
後ろに落ちる大きな木製のフレームは、3つのリンクと5つのメロンの形で作られています
黄偉の生涯における性格と政治的業績を称賛する盾の1つ
慈徳宮の領主、ファンウェイの像(ファンイーソウ; 1488-1538 AD)