嘉義県朴子市の配天宮は旧名を「樸仔宮」あるいは「樸樹宮」と言いました。清の康熙26年(1687年)の創建で、清の同治4年(1865年)の改修時に「配天宮」と改名されたと伝えられています。清代、日本統治時代、中華民国と、時代ごとに大規模な増築や修繕が行われ、多くの名工の手から数多くの芸術・文化遺産が生み出されてきました。そのほか、木の根を彫刻してできた「鎮殿媽」、康熙帝が使用したと伝わる金のポエ、大正11年(1922年)に明治製糖株式会社蒜頭製糖所の社員が供えた青銅の香炉と青銅の大燭台、大正4年(1915年)に信徒が林朝英(1739-1816年)の書から製作した「莫不尊親(親を尊ばぬ者はない)」の扁額などがあり、どれも一見の価値のある文化財です。 毎年、旧暦正月から媽祖の誕生日(旧暦3月23日)までの間は「御賜灯花」が観賞できます。この行事は毎年恒例の一大イベントで、清の嘉慶帝が水軍提督・王得禄の養親である兄嫁の許氏に感謝するために始まったのだそうです。
康熙帝は、日本統治9年(1920年)に梅州に香熙帝を使って香を贈ったという伝説があります。
配天宮で「3つのリンクと5つのメロン」を添えて、「銅梁」は木枠を描いた
林朝英(1739-1816)書道「親戚を尊重しないでください」のプラーク、大正時代(1915)の4年目に信者に寄贈
巨大な法会の木から彫られた「ジェンディアンマ」は、木の根がまだ地面に絡み合っており、手に負えないマズとして知られています。
大正11年(1922年)に株式会社ガーリックシュガーファームの社員から贈られた青銅の燭台
大正11年(1922年)に株式会社ガーリックシュガーファクトリーの社員から贈られた青銅製香炉