彰化の鹿港興安宮は天上聖母、いわゆる媽祖を祀る廟です。鹿港興安宮は鹿港最初の媽祖廟です。その歴史は、清の康熙23年(1684年)、福建省興化府より媽祖を台湾・鹿港に招き廟を建てて祀ったことに始まります。この廟は「興化の平安」、「興化の安寧」の意味を込めて「興安宮」と名付けられました。清代には興化府出身者の集会所としても用いられ、そのイメージから興安宮の媽祖は興化媽、廟は興化媽祖宮とも呼ばれました。 鹿港街の狭い街中にある鹿港興安宮は、土地利用に合わせて左右を家屋に挟まれた細長い街屋型の廟となっています。廟の前には小さな廟埕(広場)があります。建物は両落(中央2棟)と拝亭の構成で、手前から奥に向かって三川門、拝亭、正殿と並んでおり、拝亭と正殿はつながっています。
鹿港興安宮は清王朝の康熙帝23年(1684年)に建立されました。廟号の前に「開館」と記されており、古くからの歴史があります。
墀頭は庇柱を越えて伸びる伝統的な建物の切妻の一部であり、両側の切妻によって作られた一種の装飾です。興安宮殿の頭には石獅子が置かれています。
媽祖のパトロールの名誉衛兵である執事カードは、鹿港興安宮殿、天の聖母、沈黙、回避、天気の良い日、国大人民の安全、国と人民の保護、市民および軍の将校の香りに書かれていました。
鹿港興安宮は左右の隣人に挟まれており、通りの家の形をした寺院の建物です。
清王朝の光緒13年(1887年)には、濮陽に「莆陽」と刻まれ、濮陽は濮陽の別名でした。
清王朝の咸豊帝2年(1852年)には、「奠安山海」の楯に「興安會館」と書かれ、鹿港興安宮が興安省の人々のためのギルドホールであることを証明する
後陣は玉皇大帝の地位に捧げられ、3人の役人、観音の女神、幸運の女神、そしてドラゴンが同行します