指定/登錄理由
特色あるナビゲーショ
新竹の新埔褒忠亭義民廟は台湾北部の客家人に共通する信仰の中心地で、清の乾隆53年(1786年)の冬に工事が始まり、2年後に完成しました。清の乾隆51年(1786年)、台湾天地会北路の首領林爽文(1756-1788年)が民衆に呼びかけて清に反旗を翻しました。北路部隊は淡水庁(新竹)を攻め落とした後、六張犁庄(現在の竹北市六家地区)へと進攻しました。歴史に言う林爽文の乱です。地元の有力者たちは郷里を守るため義勇軍を組織し、朝廷の鎮圧行動に協力しました。乱の平定後、清の乾隆帝(1711-1799年)から乱の平定のために身を捧げた義民(義勇軍兵士)を称える「褒忠」の扁額を賜りました。不幸にも犠牲になった義民の遺体はここに埋葬され、この塚は「大塚」と呼ばれるようになりました。また、地元の有力者は義民を祀る廟を建てることにしました。ここで行われる義民祭は歴史が古く、台湾北部の客家コミュニティの結び付きや彼らの歴史・文化を反映しています。義民爺を信仰の中心とした儀式や習俗は、客家の芸能の特色を示しています。ここは台湾北部の客家を結びつけている重要な文化・信仰の地なのです。
發展源流
主要特色
褒忠亭は、2つの入り口、2つの廊下、2つの横型の家があり、メインホールの幅は5部屋です。
正面玄関の両側にある石獅子は、清道師が彫った初期の作品で、獅子の体型はフィットし、彫り線は丸く、傑作となっています。
褒忠亭の真ん中にある3つの湾はポーチに縮小しました
「義薄雲天」プラーク、続いて清王朝の乾隆帝によるプラーク「褒忠」
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