桃園の寿山巌観音寺は、所在地の旧名が「亀崙嶺」であったことから「嶺頂廟」とも呼ばれています。言い伝えによると、清の乾隆7年(1742年)、閩東地域から、俗名を鄧定国(生没年不詳)という法師が普陀山の観音菩薩を携えて台湾にやってきました。現在観音寺が建っている場所を法師が通りがかった時、お告げが下り、ここに草庵を作って観音菩薩を祀ったのだということです。乾隆58年(1793年)、福建水師提督兼台湾鎮総兵のハダンガ(哈当阿、?-1799年)が寺で願を掛けました。そして、乾隆60年(1795年)に神の恩恵に感謝するため、地元の有力者から寄付を募って廟を建てることにしました。廟は清の嘉慶2年(1797年)に完成し、「寿山巌」と名付けられました。 寿山巌観音寺は日本統治時代の大正4年(1915年)、地元の有力者の呼びかけで改修されました。陳応彬(1864-1944年)が工事の指揮を執り、伽藍の配置や様式を決定しました。天井の棟木や母屋(もや)には多種多様な彩色彫刻が施され、壁堵(石彫の壁)の多くにも多数の彫刻や彩色装飾があります。彫刻は非常に繊細かつ多彩であり、歴史芸術としてたいへん貴重なものです。
寺院の裏側にある嶺暁ホールから財団法人桃園寺院を見ると、屋根の層ごとの変化は、台湾の伝統的な中国建築の美しさを示しています
寺院の内壁には、過去に建てられたいくつかの石碑がちりばめられています。これらは、寿山巌観音寺の歴史を理解するための重要な歴史的資料です。
三川門のフレームは双方向と3肉で、メロンチューブは象の座席とライオンの座席で作られています。
清朝同治帝3年(1864年)に福建海軍大将の林文茶が贈った楯
清朝嘉慶帝2年生のハーダン・アクシアンによる「慈帆広治」(1797年)
龍柱に刻まれた「旧道健庄」は、寿山巌観音寺の五大穴のひとつです。
門神の門神絵画は、戦後北部の有名な絵画芸術家、徐連城の作品を保存しています
寿山巌観音寺は、2つの滝、2つの廊下、2つのドラゴンの建築パターンに属しています。