西徳堂は斎教金幢派蔡公派の斎堂で、日本統治時代の明治30年(1897年)に建てられました。金幢派は王佐塘(1538-1619年)が明の万暦年間に創始した宗派です。その後、「蔡阿公」や「蔡公」と呼ばれる蔡文挙(生没年不詳)が福建莆田に移り住むと、蔡文挙一派の人は「蔡公派」と呼ばれるようになりました。清の道光年間には蔡公派は台湾に渡りました。 斎堂は菜堂ともいい、斎教信者が祭祀や集会を行う建物です。斎教は清朝政府から厳しく禁止された民間宗教で、そのため斎堂の多くは住居のような外観をしています。現在の西徳堂の建物は日本統治時代の大正10年(1921年)に建てられたもので、間口が三開間(柱が4つ立つ広さ)で単落(一の字の形をした1棟)の木造2階建ての建物となっています。主な祭祀の場所は2階にあります。2階の明間(主要な部屋)には木の衝立があり、衝立の前は三官庁、後ろは内家郷(三官庁、内家郷はそれぞれ神を祀る場所)となっています。内家郷は斎教で最も神聖かつ特殊な空間です。
右の2番目の部屋の中には木製の屏風があります。木製の屏風の前の犠牲スペースは第7祖先ホールと呼ばれ、地蔵菩薩の像と信者の死の錠剤が祠堂にあります。
2階の明室の左右に八角形の扉があり、2階に通じています。
2階の明建の木造の仕切り壁には龍と虎が描かれており、龍と虎の姿勢が鮮やかです。
西徳堂はもともと「西竺庵」と名付けられ、三宝ホールの中扉連句、上連句は「西竺」が率いていました。
西徳堂はコンクリートのジャングルにあり、中庭の門と中庭の壁が広い内部空間を定義しています