南屯文昌公廟は、清の嘉慶2年(1797年)に地域で資金を募って建設され、当初は「犁頭店文昌祠」と呼ばれていました。「社学」(郷村の学校)も併設しており、台中地域の教育の発祥地と言えます。新蘭社、文林社、崇文社、大観社といった社学が次々設置されたほか、廟の中に数多くの清朝時代の匾額、二対の拝亭石柱や二枚の「棟対」(軒下に掛ける対聯)が残されており、清代における社学の発展が見て取れます。 明治31年(1898年)には、日本政府が借用し、「犁頭店公学校」の校舎としました。大正10年(1921年)、日本式教育の浸透に危機感を持った地元名士は伝統的な漢文教育の保存のために尽力し、台湾新文化運動に呼応して「南屯昌明会」を組織しました。 文昌公廟は、現在もなお文化教育の推進に貢献し続けています。建物こそ1972年に「回廊楼閣」の文廟様式に建て替えられましたが、廟の保存過程や文化面で果たしてきた役割はきわめて重要であり、伝統的な信仰、歴史的建造物、社会教育といった各分野においても貴重な文化遺産となっています。
文昌公明の「回廊パビリオン」スタイルの2階建て屋根裏部屋
プラーク「世界の文明」は、時代は終わりましたが、大正13年(1924年)の「宗教記録」にこの寺院にこのプラークがあると記録されています。
南屯文昌公廟は文昌皇帝に捧げられたもので、文化教育の寺院です。寺院の宝物「文昌ギフトペン」
新しい寺院の完成後、寺院の外にある関盛皇帝の像が寺院に追加されました
壁の両側には「徳宏が空に重く、大吉新武福が世界に繁栄している時代」と刻まれています。